「どれだけ泣き叫んでも、本人は二度と目を覚ましてくれない」24歳の息子を奪われた両親…受け入れられない現実【小樽飲酒運転事故から1年《第1部》】

約1年前の2024年9月22日朝、北海道小樽市の国道で、飲酒運転の男性会社員(当時32)の車が反対車線にはみ出して、乗用車と正面衝突しました。 この事故で乗用車は横転して大破、乗用車を運転していた大学院生、田中友規さん(当時24)が死亡しました。 警察によりますと、男性の呼気からは、基準値の3倍以上のアルコールが検出。 男性は、事故の2時間ほど前まで酒を飲んでいて、飲酒の時間は11時間半以上に及んでいたということで、過失運転致死と酒気帯びの疑いで逮捕・送検されました。 その後、同年10月、札幌地検は、この男性を処分保留のまま釈放。「起訴」か「不起訴」か、最終的な処分は、事故から1年がたったいまも出ていません。 「どれだけ泣き叫んでも、本人は二度と目を覚ましてくれない」。かけがえのない息子を亡くした両親が、現在の心境を語りました。 (HBC北海道放送報道部 馬場佑里香) ◆突然の知らせと受け入れられない現実 事故当日、最初に警察からの連絡を受けたのは、友規さんの母親でした。 母親:警察が主人に連絡したのですが、仕事中で電話を取れなかったので、私の携帯電話に直接連絡が入った形でした。 「けがの程度はどのくらいでしょうか」とお聞きしたら、ちょっと間があいた後に「残念ながら亡くなりました」と言われ、非常にショックでした。とりあえず事故ということだったので、同乗者がいたのか、けがはなかったのか、相手がある事故だったのか、単独事故だったのかを確認しました。 相手がいますということだったので、今思えば腹立たしいですが、相手のけがの心配をしました。 当時の記憶がかなりまばらになっていて、はっきりしたことは覚えていないんですけれども、どこかのタイミングで居眠りもしくは飲酒と聞いた記憶はあるんですが、それが電話だったのか、直接会った時に聞いたのかははっきりしません。 父親:私は仕事で、携帯を仕事中持って歩いてなかったので、妻から直接、職場に連絡をもらいました。 母親:やはり現実味がありませんでした。突然亡くなったので。自分がドラマの中にいるような感覚で、ずっと他人事のような、ただ事務的な作業をこなすしかないので、自動車保険の会社に連絡をしたり、息子のバイト先に連絡したり。 まだ本人に会っていなかったので、「身元確認に来てください」と言われただけでは何も分からず、ただ「やることをやらなきゃ」という感じで過ごしました。 本人に会うまでの間に、インターネットのニュースで、間違いなく、私の車がひっくり返っているのを見て「本当に息子が事故に遭ったのかもしれない。でも、まだ本人に会ってないから、もしかしたら息子じゃないかもしれない」という思いで過ごしていました。 ―――警察から連絡があったのは? 母親:主人の単身赴任先に行っていて、家の片付けをしている時に電話が入りました。 札幌にいなかったので、身元確認に行くにも自分の車がなく、JRで向かったので、息子に会えたのは午後3時半くらいになってしまいました。最初の連絡は午前10時半くらいだったと思います。 父親:事故を知った時刻は、正確には覚えていませんが、妻に連絡が来てから1時間以内、おそらく午前11時頃だったと思います。 ◆「どれだけ泣き叫んでも、本人は二度と目を覚ましてくれない」「時間は戻せない」 事故の連絡を受けた両親は、病院で、友規さんと対面します。 母親:病院の方で息子の状態をきれいにしてから会わせてくれました。 息子に会って初めて現実に引き戻された状態で、「本当に友規だったんだ」と。そこでようやく認めるしかなくて…。抱きしめたところで、もう、朝早い事故だったので、完全に体も冷たくなっていて…。 どれだけ泣き叫んだところで、本人はもう二度と目を覚ましてくれないので、虚しさと悔しさだけ…。 父親:私が、息子が安置されている病院に着いたのは、妻の到着の3時間後くらいだったと思います。あまりにも突然のことで、現実味がなさすぎたなと思います。「本当に死んでしまったんだな」という思い。 病院の方が、息子が運ばれてきた経緯や状況を医学的に丁寧に説明してくれたので、何が起こったかはだいたい分かりました。一方で、事故の瞬間を回避できない限り、時間は戻せないなという気持ちでした。 ◆「あの子はみんなに好かれていたんだな」200人以上の友人らが葬儀に参列 友規さんは釣りが大好きで、この日も、翌週友人と行く釣りの下見に行った帰り道に、事故に遭いました。 母親:大学生なので、私たちにどこへ行くかは言うわけではなかったです。その時は3連休で、本来なら私が車を使って主人の所へ行く予定でしたが、「車を使わせて欲しい」と言われたので、どこか行きたいのだろうなと。デートか遊びにでも行くのだろうと思い、「いいよ」と。目的は聞いていませんでした。 事故の後、娘に聞いたら、「ちょっとこれから釣りに行ってくるわ」と言っていたと。釣りの帰りだったというのは聞きました。 母親:子どもの頃から釣りはずっと好きでしたが、家族は誰も釣りに興味がなかったので、大学生になってから釣り好きの友達と本格的に始めたのが本当のスタートでした。 いつもは釣り仲間と行くのですが、その一人が留学中で、次の週に札幌に帰って来るから、友達には「ちょっと下見を兼ねて偵察してくる」と言っていたようで、一人で行った帰りの事故だったと、後から聞きました。 その年のゼミ旅行のパンフレットは日程表も全部息子が作っていたと、後で先生から聞きました。みんなを喜ばせるために何かを準備して行動するのが好きだったんだと思います。 友達もすごく多かったです。お通夜とお葬式にあれほど人が来るとは思っていませんでした。 もう、あんなに来るとは思っていなかったので、「あの子はみんなに好かれていたんだな」と思いました。200名以上はいらっしゃっていて、人が多すぎてあがることができなかった方もいたと聞いているので、もっと多かったのかもしれません。小学校、中学校、高校、大学の友人と、バイト先の人たちが来てくれました。 ―――事故後、周囲の人たちからは、友規さんについて、どんなことを聞きましたか? 母親:あったことは何でも私に話す子だったので、息子の友人たちと「そんなことあったね」と思い返せるくらい共通の話題がたくさんありました。 本当にみんな「優しくていい子だった」と話してくれて。大学のゼミのお友達からも「とにかく優しくて」と。 後輩からは、「困ったことがあったら何かやるよ」と声をかけて色々教えてくれる、すごく頼りになる先輩だったと聞きました。みなさん、「常に気にかけて声をかけてくれる先輩だったので、悔しいです」と言ってくれていました。面倒見が良くて、困っている人を見ると、見過ごせない知らないふりができない子でした。 ―――ご両親から見て、友規さんはどういうお子さんでしたか? 母親:とにかく優しくて面倒見がいい子というのは誰からも言われる子で、社会に出しても恥ずかしくない、まっすぐに育ったいい子だと感じていました。3人兄弟の一番上だったので、下の子たちの面倒もすごく見ていました。 将来、結婚して子どもができても、一生懸命家族を守ってくれる素晴らしい子だっただろうなと思っていました。 ◆「あの子の努力が、実を結ばなかったのが本当に悔しい」夢半ばで奪われた未来 友規さんは、当時、化学系の研究職を目指して就職活動中だったといいます。 母親:研究職を目指していたので、ひたすら研究をしていました。海外での就職も目指していましたが、まずは国内で頑張って、将来的に海外を目指すのもいいかもしれない、という話はしていました。 本人が努力していた結果が実を結ぶ直前だったのは間違いありません。頑張って自分のやりたい仕事をするという目標を確実に決めて動ける子だったので、それを成し得なかったことがかわいそうで仕方ありません。 あの子の努力が、就職という形で実を結ばなかったのが本当に悔しいです。 ◆夢に出てくると「久しぶりに会えた」…1年経っても受け入れられない喪失感 事故から1年、家族にとっては、現実を受け入れられない日常が続いています。 母親:いまだに受け入れていない自分が間違いなくいます。 初めの頃は、玄関が開く瞬間に「あ、帰ってきたかな」と期待してしまう自分がどうしてもいました。この1年、たまに夢に出てくると「久しぶりに会えた」という喜びがありますが、でも会えないので…。 家族は、常に息子のことを感じているので、リビングに置いてある遺骨と遺影に向かってみんなで話しかけて「これだったらお兄ちゃん絶対こう言ったよね」といった会話をよくします。でも、やっぱり、まだ全く受け入れられません。 来年3月には就職して初めて家からいなくなるタイミングだったので「本来だったら今こうだったね」と頭の中で考えてしまい、さらに寂しく思います。 取材も、初めの頃はとても受けられる状況ではありませんでした。誰に対して何を訴えるという気持ちもなくて、ただただ自分たちの家族を守るだけで精一杯でした。 今は、少し聞かれたことに対して、考えて話せる状況になってきたのかなという心境の変化はあったかなと思います。 【第2部】は、処分保留で釈放された飲酒運転の男性への両親の憤りの声です。 ■この記事は、3部構成になっています。 【第1部】「どれだけ泣き叫んでも、本人は二度と目を覚ましてくれない」24歳の息子を奪われた両親…受け入れられない現実 【第2部】「人殺しとしか言いようがない」処分保留で釈放された飲酒運転の男性への強い憤り 息子を奪われた両親の叫び 【第3部】1年経っても処分保留のまま…「静かに待つしかない」両親の葛藤と願い“危険運転”のハードルについて専門家は ※亡くなった田中友規さんの両親へのインタビューは、事故から1年を前に、2025年9月15日に行ったものです。

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