【解説】ジャクソン牧師がいかにオバマ大統領誕生の道を切り開いたか アメリカの変化に貢献

アンソニー・ザーカー北米特派員、サム・ウッドハウス記者 1960年代のアメリカ公民権運動で重要な存在だったジェシー・ジャクソン牧師は、アフリカ系アメリカ人として初めて、活動家から身を転じて、主要政党の大統領候補を目指して活動した。(一部敬称略) マーティン・ルーサー・キング牧師の弟子だったジャクソン牧師は、アフリカ系アメリカ人の政治参加を助け、その生活向上に取り組んだ。そうして自分の政治家としてのキャリアを築いた後、1980年代には大統領選に2回出馬し、全国区の影響力を獲得した。 他にも大統領を目指したアフリカ系の候補者はいたが、実際に多くの票を獲得したのはジャクソン師が初めてだった。そしてその成功が、バラク・オバマ氏やカマラ・ハリス氏など、後に続いた人々のための道を切り開いた。 ジャクソン牧師はその活動を通じ、多様化が進むアメリカ国民を結束させる運動を構築し、貧困層と労働者階級のアメリカ人を中心に据えたメッセージを発信した。 「民主党の中で多民族・多人種の民主主義について語っていた人は、ほかに誰もいなかった」。ジャクソン牧師をたたえるためシカゴで2024年8月に開かれたイベントで、ヴァーモント州選出のバーニー・サンダース上院議員はこう述べた。 「(ジャクソン牧師の)運動は、単に私たちを結び付けるだけでなく、進歩的なアジェンダの下に結集させた」 ジャクソン牧師は演説の名手だった。そして、世界で最も豊かな民主主義国家で二級市民のように扱われていると感じる人々の不満を代弁した。 1988年の民主党全国大会では演説の締めくくりに、「希望が生き続けるように」と繰り返した。これは数十年を経て、2008年大統領選でオバマ氏が勝利した際の「希望と変化」というスローガンに継承された。 大統領を目指して歴史的な挑戦を繰り返した後、ジャクソン牧師は民主党内の長老的存在となった。 しかし、その晩年にはスキャンダルが続いた。不倫関係が明らかになったほか、側近で政治的後継者の息子ジェシー・ジャクソン・ジュニア氏はイリノイ州選出の連邦下院議員になったが、選挙資金の不正流用事件で有罪となった。 ジャクソン牧師は2017年にパーキンソン病と診断され、表舞台での活動から退いた。この診断は後日、進行性核上性まひ(PSP)にあらためられた。パーキンソン病も進行性核上性まひも、脳と神経系と筋肉の制御に影響する病で、症状が似ている。 ジャクソン牧師は1941年10月8日、サウスカロライナ州グリーンヴィルで、母ヘレン・バーンズ氏の子として生まれ、ジェシー・ルイス・バーンズと名付けられた。16歳の母は未婚で、近所に住んでいた33歳の既婚男性ノア・ロビンソン氏との婚外関係によって妊娠したことを理由に、地元のバプテスト教会を追放された。 2歳の時、母はチャールズ・ジャクソン氏と結婚し、幼いジェシーはジャクソン氏の養子となった。ジェシーは実父ロビンソン氏とも交流を続け、ジャクソン氏とロビンソン氏の両方を共に父とみなしていた。 養父のジャクソン氏は信仰熱心だったため、ジェシーは教会に通いながら育った。南部では黒人が集まる教会は伝統的に、彼らの政治的抵抗の中心だった。 サウスカロライナ州で育ったジェシーは、当時のアメリカ南部で全ての黒人がそうだったように、白人から隔離されていた。別々の学校に通わされ、バスやレストランなど公共の場では、指定区域にしか入れなかった。 ■キング牧師の弟子 高校では優秀で、クラスの代表に選ばれ、あらゆるチーム・スポーツで活躍した。 アメリカンフットボールの奨学金を得てイリノイ大学に進学したことで、貧困から抜け出し、野心を追い求める道が開かれた。しかし、白人学生が圧倒的に多いイリノイ大学から間もなく転出し、歴史的に黒人学生が大多数のノースカロライナ州にある大学へ移った。 イリノイ大学から転校した理由について、白人の監督が自分をクォーターバックとして起用しなかったからだと本人は話していた。しかし、これには異論もある。黒人クォーターバックがすでにいた記録が残っているため、若きジェシーの問題はむしろ学業不振だったとも言われている。 転校先のノースカロライナA&T大学で、徐々に公民権運動に関わるようになった。1960年には、白人専用図書館での無言デモに参加し、ほかの学生7人と一緒に逮捕された。これを機にこの図書館では、人種隔離が廃止された。 4年後に大学を卒業すると、シカゴへ移住した。そこで、宗教指導者になるための訓練を受け、公民権運動のリーダーとして最も有名だったキング牧師の目にとまった。 キング牧師は1957年、社会的・経済的正義を目指す手段としての非暴力行動を推進するため、南部キリスト教指導者会議(SCLC)を設立し、このSCLCを通じて、「パンのかご作戦」を立ち上げた。この活動は、黒人に基本的な礼節を示し、雇用機会を与える企業を選定し、それを積極的に利用するよう黒人市民に働きかける一方、その逆に企業はボイコットするよう奨励するものだった。 ジェシーは20代の若さでこの運動のシカゴ支部の責任者となり、やがて全国責任者へと抜擢された。 1968年4月に、ジェシーの人生は大きく変わった。テネシー州メンフィスのロレイン・モーテルでキング牧師が暗殺された時、一緒にいたからだ。射殺される直前、キング牧師はモーテルの2階バルコニーの手すりごしに、地上の駐車場に立っていたジェシーに向かって、楽しそうに話しかけていた。 ジェシーは記者団に対し、息を引き取るキング牧師の頭を自分は抱きかかえていたのだと話した。しかし、これは他の目撃者の話とは一致しない。ジェシーは翌日、キング牧師の血が付いた服のままテレビに出た。これは批判もされたが、自分が公民権運動の後継者になるのだと示す行動だった。 「あの一発の銃弾で運動を死なせたりしない。我々は、そう決意していた」のだと、ジャクソン師は後に語った。 キング牧師が晩年そうしていたように、ジャクソン牧師も、アメリカの問題は人種差別と同じくらい、階級格差に根ざすものだと語り始めた。最大の断層は「持てる者」と「持たざる者」の間にあると主張した。 米紙ニューヨーク・タイムズに対しては、「人種問題を階級闘争に変えれば、全く新しい闘いになる」とも述べた。 「パンのかご作戦」は3年後、指導部をめぐる対立から分裂し、ジャクソン牧師は「オペレーション・プッシュ」を結成した。プッシュ(PUSH)とは、「People United to Serve Humanity」(人類に奉仕するために集まった人々)の頭文字をとったもの。 それ以降、ジャクソン牧師は、アメリカで最も影響力のある政治的存在の一人となった。 プッシュはインナーシティ(訳注:アメリカで大都市の中心部が貧困地区となっていた現象の意味)での教育や、企業に黒人雇用を促すアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)を推進した。 ■大統領選に出馬 しかし、ジャクソン牧師に対する批判や異論も絶えなかった。かつて反ユダヤ的発言をしたとされた。牧師に叙任された者として、そして自分自身が望まれざる妊娠の結果だという立場から、人工中絶に反対した。 当時のアメリカでは、「ロー対ウェイド」事件に対する最高裁判決が1973年に出たばかりで、中絶の問題がアメリカ政治を大きく揺さぶっていた。「ロー対ウェイド」判決は女性の人工中絶権を認めるもので、伝統的に公民権運動と歩調を合わせてきた民主党は、中絶を合法のまま維持することをおおむね支持していた。 しかし、ジャクソン牧師は、それに歩調を合わせなかった。 1977年には、「人間は自分たちだけで、命を与えたり創り出したりすることはできない。命は本当に、神からの贈り物だ。したがって、自ら与えることができないものを、奪う権利など誰にもない」と書いた。 牧師は、聖書の時代に中絶手術が可能だったなら、モーセやイエスは生まれていなかっただろうという意味のことも述べた。 1983年にはシリアを訪れ、捕虜になっていたアメリカ人パイロット、ロバート・グッドマン大尉の解放を成功させた。これでジャクソン牧師の全国的な知名度が一気に上がった。 その後、黒人の若者の失業率が50%近くに達する中、大統領選出馬を表明した。 故キング牧師の妻コレッタ・キング氏をはじめ、ジャクソン牧師を当然のように支持する人たちにとって、その出馬表明は実に悩ましいものだった。牧師は民主党の候補指名を獲得できないだろうし、そうなれば他の進歩派候補の道を閉ざす恐れがあるという懸念があったからだ。 選挙戦の中でジャクソン牧師は、「虹の連合」について語った。これは不利な立場にかねて置かれてきた多様な人種や信念の有権者が集まる幅広い集団を意味した。牧師は、当時のロナルド・レーガン大統領(共和党)の政策に、この集団が傷つけられてきたと主張した。 「私たちの旗は赤、白、青だが、私たちの国は虹色だ。赤、黄、茶、黒、白。そして、神の目の前で私たちは全員、尊い」 牧師は1984年の民主党全国大会での演説でこう述べ、党の団結を呼びかけた。 「虹の連合」という用語の著作権を登録し、後にこれを名称にした政治団体を設立した。この動きは、黒人解放闘争団体「ブラックパンサー党」の一部をいらだたせた。「ブラックパンサー党」はかつて1960年代のシカゴで、活動家グループ同士の同盟を表すためにこの用語を使っていたからだ。 ジャクソン牧師は最終的に、民主党の候補指名は獲得できなかった。それでも、この選挙運動は政治的かつ文化的な現象となっていた。1984年10月には、ネットワークテレビの人気コント番組「サタデー・ナイト・ライヴ」を司会した。 ジャクソン牧師が大統領選に挑戦したことは、民主党関係者にも深い影響を与えた。党の予備選で300万票以上を獲得し、3位につけたことで、黒人の候補は全国的な支持を集められるし、もしかするとホワイトハウス入りする可能性もあることを示した。 同時に牧師は、リベラルな政策綱領を掲げて選挙運動を展開した。たとえば国民皆医療保険や奴隷の子孫への補償など、党内左派にとって重要な多くの問題を前面に押し出し、勢いを与えた。 牧師はパレスチナ国家を支持すると公言し、イスラエルの首相を「テロリスト」と呼んでいた。 牧師はさらに、自分が大統領になった場合、核兵器による先制攻撃は絶対に行わないし、防衛費を大幅に削減すると公約していた。これは冷戦の最盛期には、まったく実現不可能だと思われる姿勢だった。 牧師は4年後に再びホワイトハウスを目指し、増税と公共支出の増加、国家が資金を負担する国民皆医療保健制度など、リベラルな政策綱領を引き続き掲げて選挙戦に臨んだ。 この時も牧師は善戦し、最終的な民主党候補となるマイケル・デュカキス氏に対して予備選序盤では優位に立った。しかし、700万票弱を獲得し、民主党全国大会では1023人の代議員を獲得した末、敗退した。 ジャクソン牧師を支持した民主党の代議員たちはその後、牧師のように民主党主流派の支援がない候補でも党の大統領候補指名を争えるように、党の予備選改革を支持するようになった。 ■物議をかもす存在 1991年には、かつてのシリアでの成功を再現しようと、湾岸戦争の前夜にイラクを訪れ、西側諸国出身の人質を解放するようサダム・フセイン大統領に訴えた。 その翌年には、3度目の大統領選出馬を見送ると決めた。アーカンソー州のビル・クリントン知事が掲げる中道的な「第三の道」政策は疑っていたが、それでも彼を支持した。 ホワイトハウスのインターン、モニカ・ルインスキー氏との関係が明るみに出て、大統領としての自分の立場が危機にさらされると、クリントン氏はジャクソン牧師に助けを求め、自分の家族を支えて欲しいと頼んだ。 ジャクソン牧師はこの時、クリントン氏は確かにルインスキー氏との関係についてうそをついたが、「大罪」を理由に弾劾されるべきではないと述べた。クリントン氏は「小さな罪」を犯したのだというのが、牧師の意見だった。 2001年になると、今度はジャクソン牧師自身がスタッフの一人と関係を持ち、子どもをもうけていたことが明らかになった。 自分自身の不倫関係について公に説明を求められると、ジャクソン牧師は「自分の精神をよみがえらせ、家族とのつながりを取り戻す」ために休暇を取ると約束した。しかし、実際には実に素早く公的活動に復帰したため、アメリカ各地の一部の聖職者の間で、信頼に傷がついた。 牧師はテレビ番組や慈善活動を通じ、メディア露出を続けて注目を集め続けた。しかし、それは自己宣伝だと批判する声もあった。 2007年3月には、初のアフリカ系大統領になろうとホワイトハウスを目指すバラク・オバマ氏の選挙戦を応援すると約束した。 ただし、2人の関係は当初ぎくしゃくしていた。オバマ氏は「黒人に向かって上から話す」とジャクソン牧師が批判したからだ。 この発言は近くのマイクに拾われ、牧師は後に、自分の発言は「粗野で攻撃的」だったと謝罪した。 しかし、翌年の11月になると、当選したオバマ氏がシカゴで勝利演説を行う直前、テレビカメラは客席で涙を流すジャクソン牧師の姿を映し出した。 その様子を目にした多くの人が、過去の大統領選でジャクソン牧師が黒人有権者の投票率を引き上げていたことこそ、オバマ氏の勝利を助けた要因だと指摘した。 後にオバマ大統領が同性婚を支持すると決定すると、かつてアメリカで異人種間の結婚が法律で禁止されていた当時の闘いに匹敵すると、牧師はそれを支持した。 牧師は政治的な影響力を持ち続けたが、身内には問題を抱えていた。 2013年には長男のジェシー・ジャクソン・ジュニア下院議員が、選挙資金の私的流用で有罪判決を受け、禁錮2年6カ月を言い渡された。 その5年後、ジャクソン牧師はパーキンソン病と診断され、自分が立ち上げた二つの組織を一つにしたレインボー・プッシュ連合の代表を辞任することになった。 それでも、2020年にミネソタ州ミネアポリスでアフリカ系アメリカ人男性のジョージ・フロイド氏が警察官に殺害されると、牧師は現地に入り、警官たちの刑事訴追を求めた。 さらには、アフガニスタンからの米軍撤退と、最低賃金引き上げについても、声高に要求し続けた。 2024年になると、息子の有罪判決について大統領恩赦を申請したが、当時のジョー・バイデン大統領に却下された。 同年には彼が愛した政界という古巣に戻り、シカゴで開かれた民主党全国党大会に久々に姿を見せた。民主党はこの時、カマラ・ハリス副大統領を大統領候補として正式に指名したのだった。 この時の党大会では、黒人女性がホワイトハウスに到達するかもしれない、その状態を作り出すために、大いに貢献したのはジャクソン牧師だと、著名な代議員たちが次々と牧師をたたえた。ハリスはその後、2024年の選挙でドナルド・トランプ氏に敗れた。 「私たちはこの人の足元で学んだ」。「パンかご作戦」で数十年前に牧師と共に活動した、同じく古参の公民権運動家アル・シャープトン牧師はこう話した。 ワシントン州選出のプラミラ・ジャヤパル下院議員は党大会で演説した際、ジャクソン牧師にこう語りかけた。 「あの舞台に登場する、選挙で選ばれた公職者は全員がそうです。私たちがここにいるのは、あなたが私たちのために道を切り開いてくれたからです」 (英語記事 How Jesse Jackson paved way for Barack Obama – and helped change US)

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