最終回に考えた怠惰な生活の守り方

(文中敬称略) 春になると思い出す――中学2年の春、転校先で出会った中学高校の親友がいた。長身の彼は将棋が好きで、実際強かった。 一緒に他校の文化祭に行くと、彼は将棋部の催し(フリー対局)に腰を据えてしまう。少なくとも、私が横で見ていた範囲内では、他校の将棋部で彼が負けたことはなかった。その後、囲碁を好んで打つようになる。白と黒の碁石が織りなす抽象的なゲーム空間のほうが、多種類の駒が盤面を駆け巡る将棋よりも性に合ったらしい。 そんな彼は、就職した会社がかなり質の悪いブラック企業だったことから重篤な鬱病を患い、32歳で自殺してしまった。私の友人の中ではもっとも早い死であった。 棺桶(かんおけ)を担いでから32年たった今でも時折夢を見る。彼がひょろ長い上半身を折りたたむようにして、将棋だか囲碁だかの盤面をのぞき込んで長考しているという夢だ。 彼が将棋に熱中していた頃、何かの拍子に将棋の「穴熊」という定跡(将棋用語。一般用語では「定石」)が話題になった。 王将を多数の駒で囲う、大変堅い防御の陣形だ。が、彼は「穴熊だって崩せるよ」と言った。「穴熊には穴熊の弱点があって、そこをうまく突けばいいんだ。穴熊の定跡があれば、穴熊崩しの定跡、というのもあるんだよ」――彼は、駒を並べて熱っぽく説明してくれたのだが、悲しいかな、将棋に興味のない私の耳を右から左へと抜けていった。 ただ、「堅い守りの穴熊にも崩す定跡がある。ロジカルな手順がある」という一点だけが私の頭に残った。 ●民主主義だって崩せるよ ルールに従って構築されたものはルールに従いつつ崩すための定石が存在する――囲碁や将棋に限ったことではないことは歴史が示している。 1919年のワイマール憲法発布とともに成立したワイマール共和国において、極端な民族主義と人種的優越を強調するナチスが、初めて正式に国政選挙に参加したのは1928年のことだった。この時、ナチスは491議席中12議席を獲得した。 翌1929年、世界大恐慌が始まる。民衆の生活は一気に困窮化し、その中でナチスは「ナチスを支持すればすべては解決する」かのような宣伝を展開して急速に勢力を拡大した。 次の1930年の国政選挙ではナチスは577議席中107議席を獲得して第2党へと躍進する。1932年の大統領選挙にはアドルフ・ヒトラー党首が出馬するが次点で落選。同年7月の国政選挙では608議席中230議席を獲得して第1党となった。政局はナチスを巡って混乱し、11月にまたも国政選挙となる。ナチスは議席数を減らすが196議席で第1党に踏みとどまった。 そして決定的な転換点が来る。 1933年1月30日、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領は周囲に説得されて、アドルフ・ヒトラーを首相に任命。ヒトラーは政権基盤強化を狙って翌2月1日に議会を解散、選挙戦に突入する。投票日は3月5日に設定された。 選挙期間中の2月27日、国会議事堂が放火される。同日、現場で犯人として共産主義者のマリヌス・ファン・デア・ルッベが逮捕された。この事件に関してはナチスの自作自演という主張もあるが、現在では背後関係のないルッベの単独犯行という説が主流となっている。ルッベは労災で半ば視力を失い、労働運動、そして共産主義運動に希望をつないでドイツに流れてきたオランダ人だった。 が、ナチスがこの事件を最大限に利用したことは間違いない。ヒトラーは共産党の組織的犯行だと主張してドイツ共産党への大弾圧を行った。 選挙はナチスの圧勝だった。ナチスと連立を組む国家人民党と併せて議席の過半数を獲得した。3月7日の閣議で、ヒトラーはワイマール憲法の範囲を超える大きな権限を独占する全権委任法の制定を宣言。全権委任法は憲法修正を含むので、本来は可決にあたって全議員3分の2以上の出席と、出席議員3分の2以上の賛成が必要だった。この時点ではナチスなど賛成する党の議席では足りなかった。 が、ナチスは同時に過半数で可決できる「議院運営規則の修正案」も提出した。修正の内容は「欠席議員を分母に算入しない」というものだ。これまでにナチスは共産党議員を全員拘束しており、彼らが分母からはじかれることで、3分の2以上の賛成という憲法修正可決の条件を満たすことが可能になった。

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