作家でAV監督の二村ヒトシさんが、恋愛、セックスを描く映画を読み解くコラムです。今回は、第98回アカデミー賞で計12部門でノミネートされ、作品賞、監督賞、脚色賞、助演男優賞(ショーン・ペン)、編集賞、キャスティング賞の6部門を受賞したポール・トーマス・アンダーソン監督作「ワン・バトル・アフター・アナザー」。政治思想の対立とセックス、そして親子の関係を描き、人間の愛すべきどうしようもなさを痛快なエンターテインメントに仕立てた本作を二村さんが考察します。 ※コラム本文にはネタバレと性的な描写を含んでいます。 去年(2025年)劇場公開された映画の中でも最高に面白かった一本です。手に汗握るし、せつない話でもあるのですが笑える。たいへんな傑作だと思うのですが、ただし、もしかしたら、あなたの政治的な立場によっては不快に感じる可能性がある映画です。 あなたが白人で白人優位主義者だったら、この映画のあらすじを読んだだけで腹が立つかもしれない(監督も主演の男性俳優たちも白人なのですが)。あなたが日本の排外主義者だったらどう思うでしょう。ぜひ観てほしい。感想が聞きたいです。 また、あなたが左翼で「われわれは権力に逆らう正義であり、人々を抑圧から救おうとしているのだから、われわれは誰のことも抑圧していない」と信じているなら、やはりこの映画は不快かもしれません。 これはエンタメであると同時に、右も左もどっちも蹴とばして内省をうながすタイプの政治的映画でもあります。不謹慎な映画です。ふざけているわけではなく、まじめに不謹慎。だから面白いのです。 そして「思想が濃くない」「政治信条がとくにない」あなたがフラットな立場で観ても、きっと面白いと思います。 いわゆる「思想が濃い人」のなかには、右であるにせよ左であるにせよ、その思想の濃さで社会的な地位や集団の中での地位をえている人もいるけれど、それはある意味とても性的なことです。尋問をしたり拷問をしたり暴力をふるったりデモで大きい声を出したりSNSで議論と称して相手を罵(ののし)ったりするのも、やってる当人は気づいてないかもしれないけれど性的なことです。 思想と思想を暴力的にぶつけあっている人たちはじつは性的に興奮もしているのだという、心的な真実が戯画化されている映画なのです。 ▼思想が対立する二人の男と人間のどうしようもなさを描く ある娘にとっての二人の父親が主人公です。一人の父親は、レオナルド・ディカプリオ演じるボブことパット。パットは左翼のテロ集団の闘士の下っぱで、爆弾を作ることができます。強制収容所で拘束されてる不法移民たち(正当な手続きをへずに祖国からアメリカに逃げてきて、アメリカの警察に捕まってしまった難民たち。そのまま放っておくと祖国に送り返される運命)を、武力をもちいて救出・解放したり、女性本人の意思での妊娠中絶は禁止だという宗教的思想の保守系議員の事務所を爆破したりする活動の一員をしています。 パットも最初は「いまの政府のやってることはよくない。難民たちや貧しい女性たちは差別されて虐待されてて可哀想だ」という感情から、体制に反逆する団体に入ったのでしょうが(もしかしたら、やることがなくてヒマで、たまたま自分が持ってた技術を重宝してもらえたから入ったのかもしれませんが)、なにしろ綿密に計画して収容所を襲撃し、命がけで難民たちを逃すのは、うまくいくと楽しくて気持ちいい。ラリるくらい気持ちいい。 非人道的な目にあってる可哀想な人たち(じっさい可哀想で、なんらかの手段で救われなければならないと僕も思うんですが)を救うために、いばっている強い連中を知恵と暴力で懲らしめる。正義は我らにあり。しかも失敗すると逮捕されるか、最悪、警備の警官に射殺されるわけです。だから計画が成功したときは異常に高揚する。むしろ彼らはその高揚の依存症になってるのかもしれません。 反政府集団のリーダーたちの一人である黒人女性ペルフィディア(テヤナ・テイラー)は、うまく難民たちを逃がすことができた直後、たいへん性的に興奮。「発情してる黒人女は嫌い?」などと言いながらパットを押し倒し、獰猛でエロいセックスをする。そして二人は結婚。パットはすごい受け身で、仲間と一緒に政治活動をぶちかましてるときやペルフィディアに抱かれてるときは高揚してるけど、自分自身の意思や欲望というものが自分でよくわかっていない男なんですね。 ペルフィディアは作戦成功後だけではなく作戦中にも発情しています。でも発情してるのは彼女だけではない。不法移民収容所の警備の警官であるロックジョー(ショーン・ペン)は、反政府集団に襲撃されたとき居眠りをしてて、ペルフィディアに叩き起こされた瞬間、夢うつつで半勃起しています。 彼女は彼を武装解除して「もっとおっ勃てて、しっかり勃起しな!」と、銃を突きつけながら命令します。なぜ緊迫した状況なのにそんなことをするかというと、彼女はそういうことをする女だからです。いい映画だなあ。 こわもてで逞(たくま)しい肉体のおじさんロックジョーは縛られたままそう言われ、ますます勃起してしまいます。それは彼にとって恥辱であり、同時にたまらない快感なのでしょう。いや、ほんとうにいい映画だな。人間のどうしようもなさを容赦なく描く映画なんです。 ▼性的なややこしさから始まる怒涛のプロローグ ロックジョーは憎しみと欲望の両方でペルフィディアが忘れられなくなり、彼女をつけ回し、ついに捕えます。ところが彼女にこっそり「何時何分にどこそこのホテルに来い」と伝えて彼女を解放します。どうしたことなのかペルフィディアも、それに従ってしまいます。 そして彼女はホテルで彼を犯します。パットのような歯ごたえのない夫ではなくロックジョーのような強い男を犯したかったんでしょう。でもロックジョーが犯され侮辱されるそのセックスは、倒錯者ロックジョーの命令によるものです。 やがてペルフィディアとパットの家庭には女の子が生まれます。パットは赤ちゃんを溺愛します。ずっと受け身で、武力闘争に身を置きながら自分の意思や欲望がよくわかっていなかったこの男は初めて、自身の「母性愛のようなもの」を意識します。 ところがペルフィディアは家庭を顧(かえり)みません。マシンガンをぶっ放したりする反体制活動に忙しく、自分が産んだ赤ん坊のこともパットのことも正直めんどうくさく感じています。そして活動の支援者であるペルフィディアの母親も娘婿パットに向かって「あんたには結局、革命家の血は流れてないんだよなぁ」みたいなことを言うんです。 そしてペルフィディアは逮捕されてしまいます。今度は多くの人が見ている前での逮捕ですからロックジョーは彼女を逃すことはできません。彼は彼女に司法取引をもちかけます。仲間の居場所を吐けば、お前を法の監視下には置くけれど刑務所には入れず、仲間からも報復されないよう守り、市民としての生活を保障してやると。この提案は、彼から彼女へのプロポーズでもあったでしょう。こういうふうに上から目線でしかプロポーズできない男性。 ペルフィディアは組織の実態を白状し、仲間たちは次々と国家権力によって無惨に殺されていきます。パットは赤ちゃんを連れてなんとか脱出します。ロックジョーは出世していきますが、ペルフィディアは警察の監視を逃れ、保障された安全な生活から逃亡して行方不明になります。ロックジョー宛ての「あたしのマ◯コは、あんたの物じゃない」という置き手紙を残して。 パットはボブと名を変えて過去を消し、田舎町で赤ちゃんを育て、そして十数年の時が流れ、赤ちゃんだった娘ウィラは高校生に成長していました……。驚くべきことに、ここまでがプロローグなんですよ。性的なややこしさの描写に30分かかってるんですが、なにしろ全篇で2時間40分ありますから。このあと、ふつうの映画一本ぶんの、めちゃめちゃシンプルだけど怒涛の展開が始まるんです。 ▼二人の父と娘の三角関係 数十年後のパットことボブは無気力な生活をしています。汚い家のソファーに沈みこみ日々マリファナしかやることがない。保護者面談でウィラの学校に行って、先生に向かって「ちゃんとリベラル教育をしろ!」とか、からんでいます。そうやって夢破れたトラウマを癒しているのでしょうが、まあまあ人生がダメになりかけている元・活動家。 女子高生になったウィラ(チェイス・インフィニティ)は空手を習っています。空手のセンセイを演じるのは名優ベニチオ・デル・トロ(英語でも忍者はニンジャ、侍はサムライ、ティーチャーともマスターともちがうニュアンスの「先生」はセンセイです)。じつはセンセイは難民組織のリーダーです。空手教室の陰で、国境近くのこの田舎町で多くの不法移民たちをかくまっています。銃も持っていますが、空手も銃も武力蜂起の準備というより、最悪の事態が起きたとき身を守るためのものでしょう。彼は地に足をつけて、興奮せず、自分が今やるべきことだけを静かにやっている。 そんなボブとウィラとセンセイが暮らす町に、ある日、重武装した一連隊を引き連れたロックジョーが突入してきます。 ペルフィディアに去られたロックジョーは今も独身のままです。アメリカの法と秩序の番人として武勲を立て順調に出世はしたものの、けして上の階級の生まれではない彼は、もっと一流の人たちの仲間になりたい。そこでアメリカの富裕層の白人男性だけが入れる秘密倶楽部の門を叩くのですが、そこで厳格な入会資格を問われたのです。 資格は、過去に精神医療の治療を受けていないこと(ほんとうにアメリカにそういう秘密結社があるのかどうか知りませんが、これ、ものすごい皮肉だと思います。偉い人は適応障害や鬱やアルコール依存症になったとしても、家で子どもや妻を殴っていたとしても心の治療を受けては「ならない」のです。アメリカだけじゃなく世界中のあらゆる国家や組織の支配者、あらゆる小さなグループのリーダー、野党も含むすべての政治家や指導者や資本家や企業の経営者たちは、なんらかの意味で全員気が狂っていると言ったら言いすぎなのでそこまでは言いませんが、とりあえず偉い人や偉そうな人は右も左も全員がカウンセリングや精神分析を必ず受けることを義務づけてほしい、そしたら世界中の戦争や紛争や、パワハラや人災の事故やブラック労働による犠牲者の数は確実に減るだろうなと僕なんかは妄想しますけどね)。 そしてアメリカ生まれのキリスト教徒であること。そして、過去に白人女性以外とセックスしていないこと。 どうしても倶楽部に入れてもらいたいロックジョーは、ボブたちがひっそり暮らす町をつきとめ、ウィラを捕えて無理やり遺伝子検査をし、もしも万が一血を分けた自分の娘だったら、殺す。ウィラが存在していることは、かつて自分がペルフィディアに溺れたことの動かぬ証拠になりかねないからです。 10数年ぶりに襲撃されたボブは、再び命からがら逃げ出します。学校にいたウィラも脱出に成功します。ロックジョーは自分だけの未来の栄誉というエゴのために、もしかしたら自分の娘なのかもしれない少女を執拗に追います。 ロックジョーの狙いがウィラだと知ったボブはセンセイの助けを借りながら、しかし自分が生き延びるのに精一杯で、なかなかロックジョーの前に立ちふさがれない。もともと戦闘の訓練は受けてないし空手も習ってないし、体は鈍(なま)りきっています。情けない。でも情けない彼は、ウィラを追うロックジョーを懸命に追いかけます。 プロローグは1人の性的な女と、彼女に「目覚めさせられた」二人の男の三角関係。そして本篇は二人いる父(強いけど邪悪な父と、弱いし善良とはいえない父)と少女の三角関係。 ▼凡庸な人間と全体主義国家 ここからは「ワン・バトル・アフターアナザー」と直接は関係ない余談ですが、第2次大戦前から戦後にかけてハンナ・アーレントという哲学者がいました。(その哲学の誕生と人生は映画化もされています。) 彼女はユダヤ人でしたが、戦争中にナチスに差別され肉親を虐殺されまくった同胞たちが戦後にナチスの残党を捕まえて処刑していったことを憂(うれ)いました。処刑された元ナチスたちは悪魔ではなく、ただの凡庸な人間だったように彼女には見えたからです。でも、そう述べたことで彼女はユダヤ人社会で、今でいう「炎上」をしました。大炎上だったそうです。 ハンナ・アーレントが憎んだのは、全体主義でした。戦争や虐殺が始まってしまったら右とか左とかはもう関係ありません。みんなで勢いで同じことをしていると、かつて被害者だった者は簡単に加害者になるのです。One battle after another とは、直訳すると「他の戦いの後の、ひとつの戦い」ですが、「次から次への戦い」という意味もあるそうです。 ナチスドイツや北朝鮮や中国やロシアは全体主義国家ですが、現在の日本やアメリカも全体主義になろうとしています。全体主義とは、自分というものがあやふやだからイデオロギー(自分たちの仲間だけが正しくて素晴らしいという思想)にすがり、仲間が言ってることを自分の感覚だと思いこみ、ほんとうの個人的な感覚を失ってしまうことです。 自分が「ない」から、自分を信じるために国家に忠誠を誓ったり、左翼思想に忠誠を誓ったり、資本主義に忠誠を誓ってお金を稼ぐことだけをがんばったりするのが全体主義です。インターネットで誰かが攻撃されているのに多くの人が乗っかって炎上になるのも全体主義です。 日本は素晴らしいというイデオロギーも、食品添加物は摂らない肉食はしないといったイデオロギーも、リベラルやフェミニズムといったイデオロギーも、自分がやってるだけならいいのですが、他人にも強制するようになると簡単に全体主義になります。 「ワン・バトル・アフターアナザー」のプロローグ部分でのパット(ボブ)は「全体主義と戦う左翼テロリスト」という全体主義者でした。本篇部分でのロックジョーは、どんなに出世しても本質的に自信がなくて自分自身が「ない」から、上流階級が支配してるアメリカ国家は素晴らしいという全体主義に取り憑(つ)かれて怪物になりました。 ▼二人の父親を持つウィラの人生はまだまだ終わらない ここからは「ワン・バトル・アフター・アナザー」のラストのネタバレ的な感想です。観るまえには読まないでくださいね。 父の一方は、自分の人生の勝利(?)を確信したまま、野望を掴んだまま静かに死んでいきました。 もう一方の父は、とりあえず娘と和解しました。しましたが、こっちの父によって子どものころから娘の魂に刻まれていたであろうトラウマは、あっちの父に殺されかけたトラウマで、うまいこと上書きされたのでしょうか。ほんとうに? トラウマが癒されないと人は全体主義者になってしまう可能性があります。長い長い映画はここで終わりますが、もしもこれが現実だとしたら彼女の人生はまだまだ終わらないわけです。 あと、二人の父のどっちが幸せなのか、僕にはわかりません。二人は「二人で一人」の分身だと思うので(左翼と右翼というのはそういうものですから)どっちが幸せなのかなんて考えなくてもいいのかもしれませんが。 殺し合いさえ始まらなければ、人は全体主義者であるほうが幸せなのでしょう。自分の頭で考えなくてすむし罪悪感を抱かなくてすむわけですから。しかし問題は、全体主義者が力をもつと殺し合いが必ず始まってしまい、子どもたちが殺され、生き残った子どもたちにもトラウマが植えつけられるということです。 娘がこの後の世界で、どう生きていくのかも映画の観客にはわかりませんが、わからないということが、とても面白い映画でした。ハデな映画なのに、そこはとても現実的でした。