『目撃証言』(ちくま学芸文庫)は、面白いと同時に恐ろしい本だ。本書は、アメリカの心理学者であるエリザベス・ロフタスと、ノンフィクション作家のキャサリング・ケッチャムの共著であり、犯行現場や犯人を目撃した人の証言や記憶をテーマとしている。事件の裁判において、目撃証言は重視される。だが、心理学の専門家として、目撃証言について多くの裁判で証言してきたロフタスは、実は人々が思うほど記憶は確かなものではないと説く。 ■記憶の不確かさが生む冤罪の恐怖 第I部では、ロフタスが心理学者として裁判にかかわることになった背景や意義が語られる。だが、本書で大部分を占めるのは、彼女が実際にかかわった10件の裁判について書かれた第II部だ。個々の事件について、警察が目撃証言を収集し、容疑者を特定して逮捕するまでの経緯や、裁判における検察側、弁護側、陪審員、裁判官それぞれの動向などが詳細に記されている。 どれも目撃証言が重視された裁判だが、事件発生直後、容疑者逮捕前後、公判中など、警察や検察からたびたび証言を求められるうちに目撃者の話す内容が変化していく事例が、本書には何度も登場する。問題の一つとして指摘されるのは、警察が複数の人物の写真を用意し、目撃した犯人に似た人物を選ばせるやり方だ。そのような写真のラインナップを目撃者に見せる際、警官がすでに誰が犯人だと推測している場合には、推測に合致した証言をさせようと誘導していることがある。髪型や身長などに関して最初は違う証言をしていたのに、警察の考える容疑者、起訴された被告がわかると、その人物にあわせて証言を変える例がしばしばある。本人は、あらためて思い出した、というつもりである。意図した嘘ではなく、真犯人を罰したい、社会に貢献したいという意識が、知らず知らずのうちに記憶を改変してしまうのだ。 また、警察の聴取時に見せられた写真のラインナップに含まれていた人物の顔、事件前後の出来事、マスコミ報道など、ほかの情報で見た顔の記憶が、犯人の顔の記憶とすり替わることもある。弁護側の専門家証人として裁判にかかわることが多いロフタスは、記憶に関する心理学の実験研究成果を踏まえ、目撃証言が不確かになるメカニズムを解説する。なかには、1、2人ではなく多くの目撃者が同じ人物を犯人だと断定していても、実際は錯誤だったという事例があるのだ。証言や記憶の信憑性を検証し、事件の真相に分け入っていく過程はスリリングであり、ミステリ小説を読むような知的興奮がある。だが、同時に目撃証言によって冤罪が生み出される危険性も書かれているのだから、肌寒くもなる。 事件があれば、犯人に対し被害者だけでなく世間一般も、復讐感情のようなものを抱く。だが、復讐感情にかられて冤罪を生むべきではない。復讐ではなく正義を求めるという立場で、ロフタスは弁護側の専門家証人の役割を引き受ける。ただ、証言の信憑性を問われる人物が、犯人から強姦や傷害の被害を受けた当事者ということもある。被害者は長時間、犯人と一緒にいたのだから、相手の顔をしっかり認識しているはずだ。そのように検察や陪審員は判断しようとする。一方、心理学的見地からは、被害者は突きつけられた凶器に意識が集中し、極度のストレスに襲われていたと推定される。また、ストレスゆえに、犯人と一緒にいた時間を実際よりも長く感じていた。このため、犯人の顔の記憶は曖昧であり、ほかの人物と誤認する余地があったと判断される。 被害者は嘘をついているのではなく、自身の記憶がそうだと心から信じている。その人にとっては、本当のことだ。それに対し、心理学専門家として記憶の錯誤を指摘すると、可哀そうな被害者を嘘つき呼ばわりしている図式になる。 実際、ロフタスはそのようにとらえられ、被害者や検察に同調する側から批判されてきたと本書には記されている。その種の批判は、被害者が子どもであればいっそう高まる。本書では、子どもの性的虐待をめぐる裁判もとりあげられている。それは、心配した親が我が子に被害の有無を問い続けたことが、逆に誤った記憶の生成に結びついたものだった。 ■市民が裁く時代の、記憶と冤罪の危険 ロフタスは、先述のような復讐感情にもとづく世間の批判に抗して、裁判にかかわり続けた。だが、その正義が無謬であったわけではない。彼女が弁護側の専門家証人となった際の被告テッド・バンディーは逃亡し、べつの殺人事件で再逮捕され死刑になった。もし目撃証言の曖昧さを指摘したロフタスの証言が認められ、バンディーが無罪釈放になっていたら、この連続殺人者はべつの事件を起こしていたのではないか。ロフタスは、それを想像して悩む。 また、ユダヤ人虐殺のナチスの戦争犯罪にかかわったとされたウクライナ人の裁判で、ロフタスは専門家証人になることを求められ、断っている。彼女は、関連情報を得て目撃証言への疑いを持った。だが、自身がユダヤ人であり、ユダヤ人の親族にとって身内であるロフタスが、反ユダヤで虐殺する側にいたとされる被告の側に立つことは、とうてい受け入れられないだろうと配慮せざるをえなかった。彼女は、それまでよりどころとしてきた正義の側に立つことができなかったのだ。証人を断ったその判断を記事に書いたところ、「あなたはご自身のキャリアを台無しにしました」など、辛辣な批判が多数寄せられたという。この部分の記述には、正義を貫くべきだったという後悔だけではなく、ロフタスの心の揺れがうかがえる。本書は、正義が勝つばかりの記録ではないことで、裁判で証言する立場の難しさ、人が人を裁くことがいかに容易でないかをより感じさせる。 実は『目撃証言』の原著はアメリカで1999年に刊行され、2000年に岩波書店から厳島行雄訳の日本語版が出版されていた。もう4分の1世紀前である。今回、この原稿を書いたのは、今秋にその文庫版が出たからだが、なぜこの時期にあらためて本書が注目されるべきなのかといえば、日本でも2009年から裁判員制度が開始されたからという点がある。本書では目撃証言が陪審員の判断に影響を与えやすい点が指摘されており、日本でも同様の問題があると考えられる。本書にもある通り、特に被害者の証言は、聞く者に感情的に作用するのだ。 刑事訴訟法が専門の笹倉香奈による文庫解説でも触れられているが、『目撃証言』刊行後のアメリカでは、目撃者による犯人識別の手続きの見直しなど、目撃証言のあつかいの改善が図られた。それに対し、日本では証言についての心理学的な検討がまだ進んでいない。また、証言や記憶の不確かさが、一般に理解されているともいいがたい。このため、本書は(未だに)現状への問題提起の意味を持つ。 笹倉の解説では、ロフタスが「記憶がビデオレコーダーのようには働かない」と繰り返し指摘したことに言及している。それを読んで思う。アメリカで原著が刊行された1999年から現在まで、日本を含め各国で防犯ビデオが続々と設置され、ビデオレコーダーが多く働くようになった。不確かな目撃証言で冤罪の被害にあうくらいなら、ビデオレコーダーに監視されている方が安心かもしれないなどと考えてしまう。 本書の議論は、物証の大切さを指し示す。かといって、裁判では被害者の声を聞くべきだという倫理的観点からは、当事者の証言を無視することもできない。私たちはまだ、この問題の入口に立っている。