20万円の英語の百科事典をヤクザに売った…ネトフリでは描かれなかった「全裸監督」の悪魔的なセールストーク

ネットフリックスのドラマ「全裸監督」のモデルになった村西とおる氏とは、どんな人物なのか。社会学者の太田省一さんは「草創期のアダルトビデオ業界で大きな成功をおさめたが、事業に失敗し50億円の借金をかかえた。彼の根底にあるのは、飽くなき金銭欲だった」という――。(第2回) ※本稿は、太田省一『とんねるずvs村西とおる』(双葉社)の一部を再編集したものです。 ■独特な話術を手に入れるまで 村西とおるの本名は草野博美。1948年、福島県いわき市に生まれた。いわゆる団塊の世代、テリー伊藤と同じ世代になる。 父親は国鉄(現・JR)や常磐炭鉱で働いていたが、村西が生まれた頃にはすでに辞めて自営業を始めていた。だがそれもこうもり傘の修理をする行商のような仕事で、一家の生活はずっと貧しく苦しかった。村西も小学校から高校まで新聞配達などアルバイトをしていた(村西とおる『ナイスですね』、46‐48頁、54頁)。 中学を卒業後、福島県立勿来工業高校機械科に入学。だが学校の勉強をいくら懸命にやっても将来はたかが知れていると思い、まったくしなくなった。その代わり、小説などを手当たり次第に読みふけり、人生についてひたすら考えた。そして、「日本で有数の人間になりたい」「おれと会って三分話をしたら向こう三年絶対忘れられない人間になってやろう」と強く念じるようになった。(同書、63頁)。 この言葉からは、ベビーブームのなか同世代人口が圧倒的に多かった団塊の世代ならではの競争意識の高さが伝わってくる。競争を勝ち抜くうえで村西とおるにとって最大の武器になった話術を磨く原点もまた、そこにあったと言えるだろう。 ■英語の百科事典の販売で全国トップに 1967年、高校卒業とともに上京。池袋にある「どんぞこ」というスナックでバーテンになった。「日本で有数の人間」になるため一攫千金を狙う一方で、学歴も資格もない村西青年にとって考えられる選択肢がそれだったのである。 スナックと言っても「どんぞこ」は当時の老舗。地下から2階まであるつくりで、バンドなども入っているような大型店舗だった。ただ店員のほとんどは入れ墨が入っているような男たち。そこで村西は3年ほど働き、埼玉・川口にある系列のパブに支配人として赴任する。その頃、最初の結婚もした(同書、71‐72頁)。 だが夜の水商売の過酷さもあり、村西は22歳の頃に転職する。新しい仕事は、英語の百科事典のセールスマンだった。全30巻で総額20万円もするもの。そう簡単に売れるものではない。 しかし、ここで村西は驚くべき才覚を発揮する。当時、その会社には全国に6000人ものセールスマンがいて、契約数コンテストがおこなわれていた。村西が入社時は10週あるうちのすでに6週目の段階。ところが、村西は残りの4週だけでいきなり全国トップになったのである。(同書、74‐75頁。本橋信宏『全裸監督』、77頁)。

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