衰退した映画界復興へ 20代記者発案「一番早いタイミング」の賞レース…報知映画賞誕生秘話前編

1976年に始まり、映画ファンに愛されてきた報知映画賞は今年、第50回を迎える。スポーツ新聞による単独での映画賞開催は初めてだったが、なぜ、どのようにしてこの賞は生まれたのだろうか。半世紀前を知る人たちの証言を集めながら、映画賞草創期をひもとく。(内野 小百美) 報知映画賞の始まりについて、今の映画記者で詳しく知る者はほとんどいない。新聞社主催のイベントは通常、事業部が企画するもの。しかし、映画賞に関しては当時の担当記者たちから編集局主導で始まった、ということは聞かされてきた。節目を迎えるにあたり、原点を掘り起こしておかなければならない。 1976年(昭和51年)。レコード全盛期でヒット曲「北の宿から」(都はるみ)、「およげ!たいやきくん」(子門真人)のメロディーが街にあふれていた。一方、政界はロッキード事件による田中角栄元首相の逮捕で激震が走り、混乱していた。 そんな中、映画界はテレビ普及のあおりを受け、凋落(ちょうらく)の一途をたどっていた。映画人口はピーク時(58年)の11億2700万人から2億人を割った。報知には2人の映画記者がいた。特ダネや黒澤明監督に強かった30代後半の阿部嘉典(故人)、洋画を中心に担当していた20代の坂口英明(現ぴあアプリ・web編集)。複数のOBは「映画賞を言い出したのは坂口だよ」と口をそろえる。 坂口は「50年も前だと記憶もあやふやになるが、映画賞をデスクに提案したのは覚えています。記者出身の同期(中島高男)が事業部にいて、一緒に試写会をやっていたのも大きかった。試写会が発展し、映画賞につながったと思います」。 それにしても、入社してまだ数年の若手のアイデアを、会社はすんなり受け入れるだろうか。映画界衰退の厳しい現実を見れば、一笑に付されてもおかしくはなかった。 しかし、良き理解者がいた。後に報知の副社長になる景山尚。当時、デスクだったが、映画の取材歴が長く、黄金期を知っていた。石原裕次郎らスター俳優からの信頼も厚く“邦画界のドン”といわれた東映・岡田茂ら邦画大手の上層部にも顔が利いた。景山自身もまた、映画界の寂しい現状に心を痛め、気にかける一人だった。 「映画賞をやってみたいです」。坂口の言葉に景山は「面白いじゃないか」。即答だった。「やりたいことの言えるデスクで、この一言が大きかった。若い記者の話に真剣に耳を傾け、チャンスを与えようとしてくれた」といい「報知ならではの組織風土で活気にあふれていた。どの社員にも冒険できるんだ、という雰囲気があったのでしょう」。 初のスポーツ新聞による単独開催だった。約1年前から始まった「報知映画賞・特選試写会」でファンも増えていた。事業部の中島は「最初、『特選』がスーパーマーケットみたいではないか、という声もあった」と懐かしむ。しかし、このファンの動きを映画賞にも反映すべき、との意向で、いまも続く読者投票が生まれた。 坂口は「ここまで続くと思わず、周囲の想像以上に気軽な気持ちで始めた部分も」と苦笑する。しかし、「一番早いタイミング」という開催時期にだけはこだわった。「これは偶然でなく、意図的に狙ったものです。対象作が1~11月と12月を残しているのは気になりました。それでもその年に評価されるべき映画が分かる観測気球的なものにしたかった」。20代の記者の「狙い」は的中する。賞レースの先陣を切る賞として報知映画賞は回を重ねるごとに存在感を増していく。(敬称略) 〇…報知より先に生まれ、現在も続く主な映画賞には「キネマ旬報ベスト・テン」が1924年開始と世界最古クラス。「毎日映画コンクール」が46年にスタート。「ブルーリボン賞」は51年から。同賞は最初は一般紙とスポーツ紙などが一緒に運営していたが、一時中断を経て在京スポーツ紙のみとなった。

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