【今週はこれを読め! ミステリー編】湊かなえの勝負作『暁星』を読め!

読み終えた瞬間、どうだ、という作家の声が聞こえた気がした。 『暁星』(双葉社)は、湊かなえの勝負作であると思う。 飛龍があしらわれた表紙、帯には「ただ星を守りたかっただけ」という惹句が配されており、あらすじに関する情報が一切書かれていない。さすがにそれでは不親切と思ったのか、上記惹句の下には「フィクションとノンフィクション、2つの物語がつながったときに見える景色とは」という文字が並んでいる。相当小説を読み慣れている人でも、これだけの情報から内容を想像することは難しいだろう。予断なく物語に触れてくれ、と本全体が示している。作者がそう言っている。 その意図に沿い、なるべくあらすじを紹介せず、入口の風景を記すだけで本書を紹介する。第一章の冒頭には報道記事の切り抜きと見られる断片的な記述が並べられている。ある殺人事件に関するものだ。 N県立北城高等学校で開かれた式典に出席した文部科学大臣の清水義之が、突然飛び出してきた男に刺され、病院に搬送された後に死亡した。逮捕されたのは永瀬暁(あかつきと読む)という三十七歳の男性だ。彼は襲撃の動機について「母親が多額の献金をしていた「世界博愛和光連合(通称・愛光協会)」に恨みがあり、独自の調査で清水義之大臣と教団のあいだに深い関係があることを突き止め、襲撃を決めたと話している」という。 この記述から、ほぼすべての日本語読者は実在の事件を連想するに違いない。その関心だけで手に取られることを書き手の側は忌避したのではないだろうか。その配慮は正しいと思う。愛光協会を巡ることどもは、現実に起きた事件の背景とはまったく違っているからだ。というか、虚構ならではの着想が盛り込まれていて、読んでいて驚嘆するほどであった。えええ、湊さん、本当にこんなこと書いちゃうんですか、と口に出して言った。三回言った。そのぐらい、えええ、と驚くような設定が盛り込まれている。実際に読んで驚いてもらいたいので、ここには書かない。作者のしてやったりという笑みが見えるような気がする。 逮捕された永瀬暁容疑者が「週刊梅花」という雑誌に手記を連載することが決まる。以下その文章と、手記の外側、つまり読者による反応などが並行する形で叙述は進んでいく。殺人犯による手記への関心は通常、その人物がいかなる動機で事に及んだかということに集中する。秘められた素顔を暴くと言えば聞こえはいいが、要するに相手を丸裸にしてしまいたいという欲望であり、対象に寄り添う同情ではない。いや、知りたいという気持ちがあればまだいい方だろう。ほとんどの読者は、自分があらかじめ持っている結論、自分自身で組み立てた物語に適合しているかを確かめるためにそれを手に取るのである。永瀬暁も、そうした身勝手な好奇心によって消費される存在となる。 実は永瀬には、そうされるだけの物語が前もって存在していた。彼の父は長瀬暁良の筆名を持つ作家で、一度は注目されたこともあったが作品が続かずに忘れ去られ、夭折した人物だったのである。長瀬暁良の代表作『人間ピラミッド』は「善良な弱者たち」を「踏み台」にする者に対し、主人公が「腹に撒いた手製のダイナマイトに火をつけて」飛びかかろうとする物語だ。清水義之殺害との関連を想起し、重ね合わせる者は多くて当然である。この、筆名・長瀬暁良の存在が物語を牽引するための鉤になっている。母が愛光教団に多額の献金をしたために運命を狂わされたということを永瀬暁は犯行動機として述べているわけで、では父はその事態にどのような影響を与えているのか、ということが当然だが読者の関心事となる。そうやって物語は進んでいく。 事件小説であるので、なぜか、という理由の推察や、どのように、という事態推移の詳細が手記の中では語られることになる。だが、事実をいくら羅列してもわからないものはある。それに関与した人の心である。永瀬暁の中にあるものはわかったようでも本当のところは見えてこない。まして手記が当人の執筆したものである以上はなおさらだ。語り手はいくらでも読者を欺くことができる。疑いの目で見ない限り、実はこうなのかもしれない、という想像力を働かせない限り、決して到達できない領域というものがある。 作中にはゾンビという言葉が使われている。暁の手記に出てくる用語で、自身がそうではないために、想像力の豊かな者に憎悪の矛先を向ける人々のことを指す。他人の思考をそのまま受け入れ、顧みることなく行動してしまう。動く死者のように脳の機能が停止した人々だ。 『暁星』は人がそうなるのはなぜか、自身の頭で考えるというのはどういうことなのか、を問う小説である。これは物語を読むという行為と反する一面がある。何かの物語を受け入れるのは、他者のひとつらなりの考えを受け入れ、それをわがものとして脳内で再現することに等しい。だから物語が何かを上書きすることもありうる。物語の作者としてそのことを考えたからこそ、湊は『暁星』を書いたのだろう。すべての要素が、物語とは何か、という問いに向かっていく。 ここでは一切触れなかったのだが、『暁星』という小説は中途でその姿を変える。本来の構造が明らかになる、と言い換えてもいい。その構造が見えてからが本筋で、なるほどそういうことだったのか、という納得が読者にページを繰らせることになる。だから手がかりの呈示と伏線回収というミステリー独自の楽しみも十二分に準備されている。なめらかな筆致で前半部を走り切り、本丸に読者を招き入れたところで、さて、と湊は言う。 過去作と比べても技巧の冴えに見るべき点のある一作だ。永瀬暁を手記の書き手に配したことで、登場人物と作者の間に距離が生まれ、それを利用して彼の言葉を加工する余裕が生まれた。いかにも現実に存在する者が口にしそうな言葉を、虚構のものとして捻り出すという小説ならではの技巧を磨くために、かなりの時間を費やした形跡がある。プロットだけで語るにはもったいなく、重層的に仕込まれた作者の企みを味わうべきだ。 龍のことも、暁星のことも書かなかった。読めばわかるのでいいだろう。ミステリーとしての興趣にも富んでいることは保証する。とりあえず読んだほうがいいと思う。読んで、湊の声を聞こう。 (杉江松恋)

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