新井将敬議員の死で交差した“2人の法律家”の宿命 「ゼネコン汚職事件」でかつての師弟が対峙するまでの軌跡【平成事件史の舞台裏(30)】

「ーー衆院議員の新井将敬が自殺した」 耳を疑う一報だった。検事人生25年、数々の政界事件を指揮してきた東京地検特捜部長の熊﨑勝彦ですら言葉を失った。 確認のため熊﨑が電話をかけたのは、かつて検察庁で寝食をともにした後輩で、今は新井の弁護人を務める猪狩俊郎弁護士(33期)だった。 受話器越しに返ってきた猪狩の声は震えていた。 「あなたが追い詰めたから、こうなったんじゃないですか」 半年前まで「若手改革派」として注目されていた新井将敬衆院議員の死。事件は「被疑者死亡」で終結し、特捜部が一年余り積み上げてきた政界捜査は、水泡に帰した。 新井将敬の死から遡ること5年。特捜部が建設業界に初めて本格的にメスを入れた「ゼネコン汚職事件」でも、熊﨑と猪狩は立場を分けて、相まみえた。 検察庁で同じ釜の飯を食った師弟は「ゼネコン事件」「新井将敬事件」という平成の歴史的事件を舞台に、捜査の指揮を執る特捜幹部と、事件のキーマンを守る弁護士として対峙したのである。 当時の取材記録や関係者への取材をもとに、二人の法律家が歩んだ知られざる宿命の軌跡を描く。 ■東京地検特捜部長からの一本の電話 その日の東京地検特捜部は、嵐の前の静けさに包まれていた。 1998年2月19日午後。特捜部長の熊﨑勝彦(24期)は10階の部長室で、筆者ら数人の司法記者と共に、その瞬間を固唾をのんで待っていた。テレビ各局は昼ニュースの段階から「新井衆院議員逮捕へ」と繰り返し、報じていた。 まもなく新井将敬衆院議員の逮捕が国会で可決され、夕刻には特捜部の取調室に本人が姿を見せる・・・。国会の予定では、逮捕許諾の手続きは午後6時には完了し、衆議院本会議で可決された後、午後7時頃には新井が東京地検に出頭することになっていた。 特捜部は9階の部屋に「取調室」を準備していた。新井の取り調べは、参考人聴取に続いて粂原研二(32期)があたることになっていた。 だが、歴史の歯車は音もなく狂い始める。国会の可決と本人の出頭を残すのみとなったそのとき、部長室に一本の衝撃的な連絡が入った。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする