ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(317)

右の脅迫事件のほかに、日系の少女を暴行・殺害、地中に埋めた男が逮捕され、筆者が警察に取材に行ったことがある。 男は反黒で、後ろ手錠をかけられ、土間に転がされていた。 動物の様な感じを全身から発していた。 また、サンパウロ近郊の養鶏試験場で働いていた邦人一家が居って、その主婦が、幼年期の子供を皆殺しにした悲惨事もあった。 現場に行くと、寝台の上に、その四、五人の遺体が、横たえてあった。何れも、男の子で、喉を刃物で一突きにした跡があった。 血は拭ってあり、子供たちの表情は、普通の寝顔と変わらなかった。 (よくも、こう見事に刺せるものだ)と驚いたものである。 警察に行き、その女と会った。小柄で弱弱しく、とても(この女がやった)とは思えなかった。 「何故、あんなことをしたの?」 と訊ねると、 「私は死ぬつもりだった。残して行くのが可哀想だったから…」 と答えた。顔に笑いすら浮かべた。が、直ぐに泣き出した。 その他の動き その他の一九六〇年代のコロニアの動きを、簡単に記しておく。── 六四年、サンパウロ日本総領事館からブラジルの日系総人口は五四万七、〇〇〇と発表された。 南米銀行の支店数は微増で、全体では五十数カ店にとどまった。が、本館用のビル建設を決定、サンパウロの市街地の大通りブリガデイロ・ルイス・アントニオ二、〇二〇の敷地で、定礎式を行った。 頭取職は、代々適当なブラジル人を選んで委嘱していたが、この時期は、元農相のアポロニオ・サーレスが、その役を引き受けていた。 宮坂国人は副頭取であった。経営の実務は、専務の橘富士雄に任されていた。 六八年、文協が、サンパウロ日本文化協会からブラジル日本文化協会と改称した。自らコロニアの中心機関であることを名乗ったのである。 そして、この年、一章で書いた鈴木南樹の受勲辞退の一件が起きている。 翌六九年、隈部イヲが百二歳で永眠した。もう一人、これも笠戸丸以前の渡航者で、親切者の評判のあった後藤武夫が、交通事故で没している。八十一歳。 十九章 激動 一九七〇年代は、ブラジルにとっても日系社会にとっても、激動の十年となった。 そして、八〇年代以降の…大破局への…運命の別れ道にもなった。 あれから何十年経っても、筆者は、記憶が薄れるどころか、強まるほどである。 その内容に入る前に、ほかの話から始めさせていただく。 七〇年。 一章で触れたことであるが、この年、鈴木南樹が九十二歳で永眠している。 二年前、受勲を断り、それを批判した総領事館の首席領事に猛然と噛みつき、邦字新聞の読者を喜ばした後も、日本人街を飄々と歩いていた。 が、やがて誰も、その姿を見かけることはなくなった。元気な頃は「百まで生きる」と言っていたが、それは叶わなかった。 南樹は、その八年前、 「八十四歳になった今も、十一歳のあの時と同じ様に、あの柿の実のおたつさんを見つめている。私は、そうして死にたい」 と記しているが、やはり、その様にして永久(とわ)の眠りについたのであろうか…。 七一年。 宮坂国人の文協会長の任期が満ちた。 後任には、副会長の延満三五郎が選任された。この人は元鐘紡ブラジルの社長、つまり日本からの派遣員であった。が、退職後、日本には帰らず、サンパウロに住みついていた。 山本、宮坂そして延満と、文協創立以来の四代の会長の内三人までが、移民出身ではなく、元々は日本の企業や政府系機関の派遣員で、永住することでコロニアの一員になった人々だった。 七二年、宮坂は南銀副頭取を辞し、日本へ帰った。仕事での短期の出張を除けば、四十一年ぶりであった。 東京目黒の自宅には、長年、別居暮らしをしていた夫人が居た。だから誰も、宮坂がそこで余生を送るものと思った。 筆者もそうだった。ところが、二年ほどして、取材で南銀に寄ると、役員室に接するロビーのソフアに、宮坂が腰掛けていた。 筆者を見ると、満面に笑みを浮かべ、何か叫ぶ様に声を上げ、両手を振り廻した。 かつて、こんなこの人を見ことはなかった。ただ、直ぐ普通ではないと気づいた。顔が幼児帰りしていた。半ば恍惚の精神状態にある様子だった。 後で、人から聴いたところでは、宮坂は目黒の自宅を売り払い、夫人と共にサンパウロに戻ったという。

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