いまから90年前、1936年5月18日に起きた「阿部定事件」。昭和戦前の事件を眺めて、抜きん出て後世の人々に強烈な印象を残し、伝説化している事件の一つだ。この事件の何が強烈な記憶を人々に刻み込んだのか。ドロドロした男女関係? 残虐な手口? 煽情的な報道? それらを総合した猟奇性? それだけではない。何か、時代と共鳴して、事件の当事者やメディアも想像しないような衝撃を長く社会に及ぼしたのだろう。 私の母は「貞子(ていこ)」といったが、「さだこ」と間違って呼ばれるのをひどく嫌った。生前、理由を聞いたことはなかったが、いまなら分かる。事件のとき、彼女は満はたちだった。長い年月がたったいまも異様な光を放って人々を引き付ける、その事件の正体は何なのか。当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全5回の1回目) ◆◆◆