7月23日、赴任地のモスクワで日本赤軍の元メンバー、岡本公三容疑者が死去したというニュースを聞いた。真っ先に思い出したのは、10年前の熊本地震だ。あの地震のひと月後、私はベイルートの片隅で、熊本に生まれ、熊本に帰れぬまま老いたこの男と向き合っていた。 そして訃報から5日後の7月28日、またしても激震が熊本を襲った。何とも不思議な巡り合わせだと思う。 (モスクワ支局 荒木 基) 今でこそモスクワでロシア語に悪戦苦闘しながら取材活動を続けているが、私は元々「中東屋」だ。大阪外国語大学(今の大阪大学外国語学部)でアラビア語を学び、学生時代は中東担当記者をやるのが夢であった。 わが国でアラビア語に触れる人はそう多くはなく(私は「アラビア語業界」と勝手に呼んでいるが)、アラビア語や中東の研究者・専門家はもちろん、大使館関係やメディア、商社、果ては政界まで、「業界」同士の知り合いをひとりふたりと辿れば、大体は行き着いてしまう。 私がメディア志望だと知った大学の恩師が、卒業前にそんな「業界」のツテの一人を紹介してくれた。読売新聞記者で元カイロ特派員であった高木規矩郎氏だ。 高木氏は1972年5月に岡本容疑者らが引き起こしたロッド空港乱射事件から日本赤軍をリアルタイムで取材し、最高幹部・重信房子氏とのインタビューや、岡本容疑者をレバノンで追い続けた記録を「日本赤軍を追え!」(現代評論社:1986年)という本に著していた。1975年生まれの私にとっては「日本赤軍」など記憶にも出てこない紙上の存在ではあったが、学生時分にはその本を繰り返し読み、高木氏ですら直接会うことができなかった岡本容疑者に、いつかインタビューをしてみたいと夢想していた。なぜ事件に参加したのか、どんな思いで銃を手にしたのか、本人に聞いてみたかった。 2003年、警視庁詰めの記者として、昔の重大事件を追い続ける同庁公安部の取材を担当することになった。その3年前の2000年に重信氏は逮捕されていたが、岡本容疑者は依然、日本の警察が国際手配を続ける重要手配犯であった。 私は「よど号事件」のメンバーを取材するうち、日本赤軍とは異なる路線で「革命闘争」を訴えた赤軍派元議長の塩見孝也氏の知己も得て、当時の人たちが何を考えて様々な事件を起こしていたのか、自分なりに探ろうと試みていた。「元議長」「最高指導者」と呼ばれていた立場から、シルバー人材センターの斡旋で、東京郊外の公営駐車場の管理人となっていた塩見氏は、私のような若造記者にファミレスで「まだ日本で革命を諦めてはいけない!」と熱っぽく語った。 1970年代は、色々な形で世界各国の反体制勢力と連携して「世界同時革命」や「武装闘争」を行うべし、と叫ばれていた時代だ。私が生まれる前の話であるので、こうして人づてで話を聞きながら当時の熱狂を推し量るほかないが、そんな渦の中にいたからこそ、岡本容疑者も当時在籍していた鹿児島の大学からいつの間にか国を飛び出していったのだろう。その背景は、話を聞くうちに伝わってきた。 2012年、私が特派員としてカイロに赴任した際、最も気にしていたのはやはり岡本容疑者だった。どうすれば岡本容疑者に近づくことができるのか。事件が起きたイスラエルから見れば、終身刑の判決を受けながらもレバノンで生き延びている「テロリスト」であることに変わりはない。一方、アラブ世界ではイスラエルによるパレスチナへの抑圧に抵抗する姿のシンボル的存在である。 岡本容疑者が乱射事件を起こしたテルアビブのロッド空港とは、現在のベングリオン空港のことだ。2013年、オバマ大統領がイスラエルを訪問した折、大統領の車列の取材場所に指定されたのは古いターミナルビルの前だった。その建物こそ、乱射事件が起きた場所だった。 既に建物は使われずに封鎖されていたが、ガラス越しに事件当時の写真と重なる光景を見た。手荷物受取所のターンテーブルの前で自動小銃が乱射され、手榴弾が投げられた。24人が死亡し、76人が負傷。犠牲者のうち17人は、聖地巡礼にやって来たプエルトリコのキリスト教徒だった。 まだ日本人が海外に行くことすら珍しい時代。ましてイスラエルで、銃を放てばすぐにでも治安部隊が反撃してくることなど想像がついたはずだが、どんな思いで引き金を引くことになったのか。共に事件に関わった2人はこの場で自爆し、命を落としている。既に事件からは40年以上が経っていたが、昨日起きた事件のような血生臭さを感じた。 岡本容疑者は捕虜交換でイスラエルでの終身刑から釈放されたあと、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)から「英雄」として庇護を受けていた。 実は2002年、テレビ朝日の番組「ザ・スクープ」が岡本容疑者のインタビューをしている。事件に至るまでにレバノンで軍事訓練をしていた様子や、「(事件に加わった)3人が死んだら星になると考えていた」などと饒舌に事件の経緯の詳細を語っている。イスラエルの獄中で精神疾患を患ったとされているが、54歳だったこのインタビュー当時には事件に関する質問に明確に答えている。(他にも2011年に若松孝二監督がドキュメンタリー撮影で岡本容疑者と話をしている) 私はパレスチナ人のアシスタントを通じて、まずはPFLPの担当者との接触を図ろうと試みていたが、問いかければ「いまは時期ではない」「公三の体調は芳しくない」と返事はつれなかった。 ことあるごとにコンタクトを続け、その度に断られつつ、カイロでの任期も間もなく終わりを迎えようか、という2016年5月のことだ。 突如、通信社から「岡本容疑者が事件の犠牲者への謝罪を口にした」という記事が配信されてきた。映像メディアにはなかなか取材に応じてもらえないということなのか、と悔しい思いを抱きつつも、アシスタントを通じて改めて話を聞かせてほしいと連絡を取った。 するとその時に限って「一度、ベイルートで話をしよう」とPFLPの担当者が応じてきた。岡本容疑者が幻のような存在になっていた私にとっては藁にもすがるような話だ。取るものも取りあえず、その日のうちにカイロからベイルート行きの飛行機に飛び乗った。 しかし、そう言われてベイルートにやって来たもののPFLPの担当者は「忙しくなった」などと理由を付けてはすぐに会ってはくれない。一日、二日とベイルートの海沿いのホテルで「待ち」時間が続く。思えば我々の取材への本気度を測っていたのだろうか。日本から来たテレビ記者だ、と言ってもPFLPにしてみれば日本の警察関係者ではないかと疑って掛かってもおかしくはない。ベイルートとはそんな企みや謀略が当たり前の街だ。 ベイルートに来て3日目の午後、ようやくPFLPの「公三付き」を務める男性とホテルのカフェで会えることになった。英語を話すその男性に、私は高木氏の本を通じて岡本容疑者に興味を持ったこと、それまでにも事件や背景についてさぐるうち、改めて話を聞きたいと思うようになったと説明した。男性は家族ぐるみで岡本容疑者の世話をしていて、日々の全ての接触に立ち会っているのだという。 通信社の記事について、配信された内容を翻訳して聞かせると「記者と話したのは私で、公三には会わせてもいない。日本語での会話も認めていないのに、どうしてそんな記事が出るのだ」と憤る。通信社の記事が創作だとは思えなかったが、記事にある「岡本容疑者が事件に謝罪の意を示した」というくだりには「そんなことを公三が言うはずはない!作り話だ!」とまくし立てた。 「そうまで言うなら、本人に話をさせてくれ」と男性の機嫌を損ねないよう「押し引き」しつつ、アラブ独特のミントティーを何杯も飲み、他愛もない話も交えながら4時間近く話を続けた。 「決定打は出ないが、ダラダラと話が続く」というアラブスタイルの交渉が続き、日も暮れかけた夕方。さすがに無理か、と諦めて席を立ちかけたところで、男性が「インタビューは抜きにしても、明日、公三を連れて夕食をセットするからベイルートの滞在を延ばすといい」と口にした。 レバノンとは実に複雑な国だ。イスラム教徒がいれば、キリスト教徒もいる、パレスチナから逃れてきた人、社会主義者、ありとあらゆる政治勢力や宗教を受け入れて国家を作り上げている。イスラエルによるレバノン侵攻のニュースでも分かるように、国として一枚岩になっているわけではなく、イスラエルが「ヒズボラ(イランが支援するイスラム教シーア派武装組織)」とわざわざ名指しで攻撃するのも、そうした背景があるからだ。 イスラエルで刑に服したとしても、日本の警察からはいまだに重要手配犯として追われている身でもある。そんな岡本容疑者が隠遁する場所としてレバノンとは都合の良い国であるともいえる。 ベイルートの街も政治勢力・宗教勢力でモザイクのように地域が色分けされている。岡本容疑者を庇護するPFLPは、日本赤軍と同じく「極左」というカテゴリーでイスラム教から距離を置きつつも、軍事的にはヒズボラやイランとの関係を持つという特異な立ち位置にある。ベイルートの南部を拠点とするヒズボラと違って、ベイルートに特定の地域を持っている訳ではないが、レバノン東部のベカー高原を活動の拠点とし、日本赤軍もこの地を「国際革命根拠地」と定めて活動していた。 私はてっきり岡本容疑者も、このベカー高原辺りを居所として暮らしているのではないか、とも思っていたのだが、翌日、迎えにきた男性が案内してくれたのは、ベイルートの中心部で「色」の付いていない地域でもある西ベイルート、そのメインストリートであるハムラ通りだった。 喧騒とした大通りから1本奥まった古びた雑居ビルの狭い階段を上っていくと、階段を挟んで2つの部屋があった。男性は、向かって右側のドアは自身が家族と住む自宅だと話しつつ、向かいの左側のドアを開いて我々を招き入れた。 中を覗くと、昼間でも周囲のビルに囲まれていて日が差さないのか、蛍光灯に照らされた6畳程度の小部屋。そこに白髪の人物が座っていた。 岡本公三容疑者、その人だった。 簡素な部屋にベッドとテレビが置いてあり、男の一人暮らしという生活感が漂っていた。私も岡本容疑者を追いかけ始めて20年近く。当の本人が目の前に座っている。ちょうど現地のテレビを見ながらくつろいでいる様子だった。予期せぬ形での突然の登場に私自身があっけに取られ、しばらく部屋の入り口で突っ立っていた。 男性から「座って話をしてもいい、ただし撮影もインタビューも認めない。ちょっとした会話は日本語で話しかけてもいいが、内容を英語で説明せよ」と言われ、ハッと我に返って挨拶し手を差し出すと、力強い握手を返してきた。 この時の私は「突然振られて何から話せばいいのか分からない」という思いだったが、座り込んだ岡本容疑者の方は、男性から止められているのか、あるいは警戒しているのか、ただ黙ったまま私とテレビを交互に見つつ過ごしている。ふと、部屋の隅に目を移すと灰皿と封の開いたタバコが1箱、目に入った。 「タバコはかなり吸われるんですか?」 「あぁ、1日にひと箱ほどです」 私に日本語で答えた後、またテレビの方を向く岡本容疑者。 「日本のニュースは見られているんですか?」 「NHKの衛星放送で……」 私からの他愛もない質問には、普通に受け答えをする初老の男、という印象だ。ただ、通信社が送ってきた「本人のコメント」のような込み入った話を語る様子でもない。もちろん監視付きというのもあるが、それ以前に獄中で患ったという精神疾患の影響があるのでは、と感じられるほど、私とのやり取りに機敏さは見られなかった。通信社の取材で見せた姿が本当で、私が目にしたのは、私への警戒やPFLPの目を気にしての演技だったのか。 ここでふと、私は日本の週刊誌をカイロの支局から持ってきたことを思い出した。東京から送ってもらった半月遅れの週刊誌の巻頭グラビアは、地震で石垣が崩れた熊本城の様子だった。バッグから取り出した週刊誌の巻頭ページを開きながら、 「生まれは熊本ですよね?先月、熊本で大きな地震があったんですよ。ご存じでしたか?」 と訊ねてみた。 岡本容疑者は熊本市内で少年時代を過ごしている。 「あぁ、そうですか……」 と熊本城のページを開いた週刊誌を手に取り、天守閣の写真に目を落としたまま何か物思いに耽っているように見えた。 熊本では進学校に通い、大学では研究者を目指したこともあったという。40年以上を経て、ベイルートの片隅で故郷に帰ることもできず、ただ少年時代を思い返していたのか。何を感じながら写真を眺めていたのか、監視の中でなかなかそうした思いも聞き出せないのがもどかしかった。 やがてPFLPの男性が「公三が好きな寿司レストランに行こう」と我々を促した。 雑居ビルから歩いて数分、フィリピン人が経営するという、海外でよく見かけるタイプの「回転寿司レストラン」だ。そこまでPFLPの男性や私のアシスタントも一緒に、ブラブラと岡本容疑者と連れ立って歩く。 生活に必要な程度のアラビア語を少しは話し、普段からスーパーに買い物も行くのだという。何より、これほどまでに警戒もなく、街中を歩いていることには少々驚いた。もちろん、声を上げれば、すぐにPFLPの関係者が飛んでくるのかもしれないが、普段、逆に何をするにも銃を持った警備員がウロウロしているような、ガチガチのセキュリティに慣れていた身からすると拍子抜けな思いだった。 寿司レストランのカウンターに私は岡本容疑者と並んで座り、寿司を摘まんだ。私が日本語で何か問うたびに、同じ内容を反対側にいるPFLPの男性に英語で説明する。普段は酒が入ることもあるというが、なかなか会話は続かない。 私と岡本容疑者の間に空いた寿司の皿が段々と重ねられていくなか、ポツリポツリと世間話のような話題には応じてくれるが、肝心の事件の話には至らない。男性の隙を見て聞いた 「日本から来た別の記者の方とはどんなお話をされましたか?」 といった核心に進むような質問には、聞こえているのかいないのか、ただ黙ったままだった。 そんなやり取りを小一時間。寿司もひとしきり食べて落ち着いてきたところで、私はカイロから持ってきていたもう一冊の本、高木氏の「日本赤軍を追え!」を岡本容疑者の前に差し出した。 「これは事件について書かれた本で、岡本さんのことを長年追っていた方が書いたのですが、ご存じですか?」 目を細めて、本を手に取って少しページをめくりながらも 「知らないですね……」 と私に本を返してきた。 しかし、岡本容疑者がパラパラと本をめくりつつも、ベカー高原で高木氏が取材をしていた頃の重信房子氏の写真のページで一瞬、指が止まったようにも見えた。表紙の「日本赤軍」という文字にも何か思うことはあったのだろうか。 本を見せているところをPFLPの男性に見咎められ「そろそろ今日はお開きにしよう」ということになった。 赤軍派元議長の塩見氏が、ファミレスで私に語ったような「余熱」を、岡本容疑者からは感じることはついになかった。どこにでもいるような、愛想のいい「お爺ちゃん」の面しか私は見出すことができなかった。どこか心ここにあらず、というか、遠い目をしている、何か諦めの境地に至った老人、というのが率直な感想だった。 「我々は公三がパレスチナに貢献してくれたことに対して、ほんのわずかも返すことができていない」 PFLPの男性が話したように、彼らの岡本容疑者への英雄視ぶりは、我々の想像以上だった。2022年にはPFLPが乱射事件から50年を記念する会合をベイルートで開き、そこに岡本容疑者が姿を現した。これが、彼が公の場に姿を見せた最後だった。 支援者の歓声のなかで手を挙げて応じる岡本容疑者の映像と、一緒に寿司を摘まんだあの老人とが、私にはどうしても重ならなかった。PFLPの崇拝にも似た熱狂的な支援の姿勢に、あの地で生きていくことしかない岡本容疑者は自らを同調させざるを得なかったのか。あるいは、私が会ったあの老人は、そんな本音を隠し切った姿だったのか。 私の個人的な岡本容疑者への追跡はもう叶わない。 彼が人生を賭け、多くの犠牲を払い、そして何を得られたのか。悔いはなかったのか。本人の口から聞いてみたかった。 事件で直接被害を受けた人々、そして事件を起こしたことで彼を追うことになった私のような人々に、そうした思いは明かすことなくベイルートで亡くなった。78歳だった。