ひとくくりにされがちな「穢多(えた)」と「非人」だが、当時はかなり違う存在だった。江戸時代の関東でいえば、穢多は固定身分であり、非人は基本的には犯罪などで身分を落とされたもの。家畜を皮革製品にする際も分業がされていたという。彼らが担っていた役割について見ていこう。 ■こじきを生業にした「定非人」・犯罪で身分を落とした「非人手下」 「穢多(えた)」と「非人」は「被差別民」の歴史用語として同様に扱われがちですが、実は両者はかなり違った存在でした。時代・地域によって課された役割も異なるのですが、たとえば江戸時代の関東では穢多と非人に明確な区別があります。 穢多が固定身分だったのに対し、非人は一時的なペナルティでなった身分に過ぎず、本人次第でそこから脱することもできた……などとよく説明されますが、実は非人にも「定非人」と呼ばれる人々がおり、彼らは代々乞食を生業としていたのです。 それに対し、「非人手下(ひにんてか)」と呼ばれるタイプの非人が、農民・町人といった平民が犯罪に手を染めたことで非人身分に落とされた存在ですね。 ■近親相姦や、心中失敗の罪で「非人」に落ちることも 非人手下には、領主から重い年貢を課され、それに耐えかねて土地を捨て、逃げ出した人々のうち、都市部で生活が立ち行かなくなったり、窃盗などの軽犯罪を犯してしまったケースが該当します。 それと同時に「公事方御定書」の表現によると「姉妹伯母姪」などの近親との色恋沙汰――近親相姦の罪を犯した者や、幕府の法で禁止されていた心中自殺に失敗した者たちも非人手下の身分に落とされました。 ■「非人」が家畜の死体を回収・解体し、「穢多」が皮革製品に仕上げる分業 辞書や事典の類では「穢多」の仕事といえば、「斃牛馬(へいぎゅうば)処理」が最初にあげられています。江戸幕府の法によると、農家が所有していた家畜が死ぬと、その所有権は矢野弾左衛門に自動的に移るとされました。 農民には家畜の死体を、所定の死体捨て場にまで運んでいく義務がありました。そして弾左衛門配下の者たちがその死体を回収、解体。その後は皮革製品にまで仕上げていくのです。 穢多の多くは、刑場関係者や皮革産業従事者の子孫でしたが、8代将軍・吉宗の時代以降、弾左衛門が非人たちも支配下に置いた後の関東では、皮革製品の原材料である牛馬など家畜の死体を所定の捨て場から拾ってくるのは非人の仕事になります。回収だけでなく、牛馬の死体を解体するまでが非人の仕事だったという研究もありますね。そして皮革製品に仕立て直すまでが穢多の仕事、というように、身分による分業が導入されていたのでした。 ■誰もやりたがらない「残酷な処刑」は被差別民に押し付けられた また、「行刑」の仕事も穢多たちに任されていたことは有名です。行刑とは処刑のことですね。犯罪者を捜索・逮捕する業務のほか、奉行所の判決通りのお仕置きを罪人に対して行うこともしましたが、当時は現在のように死刑といえば絞首刑一本ではありませんでした。 江戸期の処刑法はしばしば残酷極まりなく、誰もやりたがらない処刑の仕事や、遺体の管理なども含め、処刑場の管理なども「被差別民」に押し付けられてしまっていたのです。穢多だけでなく、一部の非人も行刑の仕事を任されたとする研究もありますね(沖浦和光『幻の漂泊民・サンカ』)。 ■多くの穢多や非人はふつうの農業関係者だったが… 意外なところでいえば、「青屋(あおや)」と呼ばれる染色業も、「被差別民」の仕事とされました。「紺屋(こうや)といわれる藍染職人とは区別されていた」とも、「関東においては必ずしも青屋=穢多だったとは限らない」という説もあるのですが、江戸時代に庶民の着物といえば藍染なのですね。 現代人には信じがたいのが、穢多である「青屋」に処刑業務、あるいは処刑場での仕事も課されていたという事実です。職人と処刑業務の二足の草鞋……。なかなか想像ができません。 とはいえ、穢多や非人といった江戸時代の「被差別民」の多くは、その代表的職業とイメージされがちな皮革業者や刑場関係者といった血なまぐさい職業についていたわけではなく、農業関係者だったそうです。 それでも一般人からは厳しく差別され、幕府からは他の階級との交流すら禁じられていたのでした。歴代の弾左衛門は幕府に掛け合って、穢多である自分や、配下が受けている差別の軽減に努めたのですが、その効果はあったとしても一時的なもの。現代には考えられないような差別が当時は存在していたのですね。 ※画像:寺島良安 編『和漢三才図会』第1冊,内藤温故堂,明34. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/898187 (参照 2025-04-01)