ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(150)

筆者は、その相手に関する話を、当時を知る人々から聞いたことが、何度もある。 「ある密告に関し、詳細を調べると、彼らしか、それはできない状況下だった」 といった類いの内容であった。 その彼らとは、誰だったのか? この件は、筆者は文字にすることを長く躊躇ってきた。結局は伏せた。しかし今回、ここでは思い切って書くことにする。 疑われていたのは、現代用語でいえば、いわゆる被差別部落の人々である。当時はエタと呼ばれた。無論、その総てではなく、ごく一部である。 長年、差別され続けた恨みを晴らすのが目的であったろう、といわれる。 日系社会に陰湿な空気が流れていた。 皆、民族主義者へ 九月。半田日誌。 「二十二日、野村さん宅へ行った。…(略)…野村さんもスッカリ良い民族主義者だ。 『日主だの伯主だのという教育論は全く必要なくなった。日本人の子供はどこまでも日本人であるより仕方ない』 と言っていた…(略)…子供を日本人として育てることに努力しているらしい」 野村とは野村忠三郎のことで、戦前、文教普及会事務長として、伯主日従主義の教育方針を打ち出した人物である。 半田日誌。 「三十日 在伯同胞に対する伯国政府のあつかい方に日本政府の抗議があった…(略)…ブラジルの新聞がそれを書きたてた。日本政府はブラジルを脅迫する! 威カクされているブラジル!…(略)…等の見出しで」 十二月。奥地で逮捕された日本人一五〇人が、サンパウロへ送られてきた。逮捕理由は不明だった。 被留置者たち 一九四三年三月。岸本丘陽が逮捕された。 暁星学園の日曜礼拝を始めようとした時だった。 八名の刑事が裏口から雪崩れ込んできた。宗教活動を含めて集会は禁止されていた。 岸本はDOPSへ連行され「5号室」に留置された。そこには、邦人が多数いたが、中に、気になる行動をする一人がいた。 毎晩、皆が寝静まった頃、コップに水を入れ、窓際に置き何か祈っているのである。岸本は事情を訊いてやった。これが、グリップスホルム号事件の高津注太郎だった。 彼は、リオで石射に追い払われた後、他の人々とイーリア・ダス・フローレスの移民収容所に収容された。その一部は、翌年になってサンパウロのDOPSへ移された。高津も、その一人だった。 その間、彼の家族がどうしていたかについては、不明だが、この時点では、サンパウロに居って困窮していた。しかも長女が、注太郎の知人の姦計で、料亭の女給に売られていた。料亭といっても、実態は遊郭である店もあった。 それが注太郎の耳に入り、苦しんで、夜、弘法大師に娘の無事を祈り続けていたのである。 岸本は、すぐ自身の夫人に連絡を取り、渡辺マルガリーダを訪ねさせた。渡辺はその娘の買い戻し資金を捻出、救出した。 注太郎が釈放されたのは半年後であった。 一家は、岸本の暁星学園に身を寄せた。 この一家だけでなく、交換船から追い払われた人々は、受難が続いた。ために救済会が、その世話をしたが、 「それは、それは、大変でした」 と、渡辺が、後年、述懐している。 話は変わる。岸本が5号室に入った時、そこには十数人の邦人が押し込められていた。すべてが冤罪か、とるに足らぬ微罪であった。 その中に、ずっと後年、筆者が働いたサンパウロ新聞の編集長内山勝男が居た。 その当人から聞いた話によると、ある時、街のバールでカフェーを飲んでいた。店内には別の客がいた。内山は、それが刑事だと直感した。その時、渡辺マルガリーダが通りかかり「アラ、内山さん、お久しぶり」と日本語で話しかけてきた。 内山はハッとして「そこに居るのは刑事です」と低い声で、日本語で制した。渡辺は「アラアラ、それはいけない」と、ソサクサと立ち去った。 が、その刑事が、近づいてきて、内山は逮捕されてしまった。既述の敵性国人の取締令の「公の場での自国語使用禁止」が、その理由だった。幸い、内山は短期で釈放された。が、留置が長引いた人も居た。 岸本書によると、その中に、榛葉隆咏(しんば りゅうえい)という真言宗の開教師がいた。

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