10年前、20年前、30年前に『FRIDAY』は何を報じていたのか。当時話題になったトピックをいまふたたびふり返る【プレイバック・フライデー】。今回は30年前の’95年6月2日号掲載の『大阪発 9歳から45歳まで 女性5人を殺して山に捨てた冷血男の「短絡」』を紹介する。 ’95年4月に窃盗容疑で逮捕され、麻原逮捕の4日前に殺人容疑で再逮捕された男。彼はもしオウム騒動がなかったらワイドショーが争って報道したであろう稀代の連続殺人鬼だった(《》内の記述は過去記事より引用。年齢・肩書はすべて当時のもの)。 ◆10年前に警察に届いた「挑戦状」が決め手に ’95年4月に大阪市西成区に住むK(54)は倉庫から衣服を盗んだという窃盗容疑で逮捕された。だが取り調べの中でKは10年前の殺人を自白する。さらにそれ以外にも4人の女性を殺害したとペラペラとしゃべり出したのだ。 《最初の犠牲者は当時19歳だったAさん。大阪府富田林市にある府立の知的障害者施設の寮生だったAさんは’85年4月16日、勤め先のクリーニング店から帰宅する途中に失踪。同年6月17日、奈良県広陵町の竹林でバラバラ死体となって発見された。 「本当にショックでした。彼女は自分で字も書けるし、一人でバスにも乗れる人で、社会復帰の一環として外で働きだしたばかりでした。本人も作文に『外で働けてうれしい」と書いていたほどだったんですが……」(施設の職員) それから3ヵ月後、奈良県警高田署に一通の「挑戦状」が届いた。「捕まえられるものなら捕まえてみろ」と書かれた便箋には、殺害直前にAさんを連れて行った寿司屋の名前、彼女の遺体のどの部分を切断したかなど、犯人しか知り得ないようなことが詳細に記されていた。が、警察は差出人の手掛かりを得られず、事件は半ば迷宮入り状態にあったのである》 自白の決め手となったのは10年前の「挑戦状」にたった一つ残されていた指紋がKのものと一致したことだった。Kの供述によると’95年6月16日に「大阪市浪速区の繁華街で声をかけ」自宅に連れ込んだが、「小遣いを渡そうとした際、金額で揉めてカッとなって殺した」とのことだった。 ◆遺体をバラバラにしたうえに胸なども抉る 2人目の犠牲者は事件当時まだ9歳だったBさん。彼女は’87年1月22日、大阪市住吉区の自宅から乗用車で連れ去られ、同年5月4日に大阪府豊能町の山中で白骨死体となって発見された。KはBさんを「いたずらをしようとして騒がれたために殺した」と供述した。 《Bさんの父親(40)が唇を噛む。 「娘の死から8年の間、苦しみ抜いてきました。生きていたら17歳。忘れようとはしていますが、近所の高校生など見るとつい思い出してしまう。彼が犯人なら極刑を科してほしい」》 残る3人の被害者のうち2人は’94年の4月に大阪府箕面市のヒノキ林の中からバラバラ死体で相次いで発見された。’93年7月に失踪していたスナック店員Cさん(当時45歳)と、’94年3月に失踪した飲食店従業員Dさん(当時38歳)だ。殺害の理由はいずれも「カネを貸してくれと迫られたから」(Kの供述)というものだった。 《Kは窃盗の常習犯で現在の住まいには昨年の暮れあたりに越してきたようだが、近所では「何をしている男やろ」と不気味がられていた。 「こっちから話しかけても何も答えてくれへんような男で、体つきもガッチリしとるから、なんか怖い感じでしたわ」(近所の住民) 留置所に入れられた本人は、すぐにアパートの大家に手紙を出しているが、 「その内容が『留置所暮らしで、そちらには住まないんだから敷金を返してくれ』というものなんです。いったい、何を考えているのか」(社会部記者)》 Kの犯行動機はきわめて短絡的なものばかりだった。だが、女性ばかりを殺害し、子どもだったBさん以外はいずれも鋭利な刃物でバラバラにしたうえにさらに胸を抉るなどしていたことから、猟奇的趣味による犯行も疑われていた。 なおこの時点ではKが「大阪で知り合った女を殺して神戸方面に捨てた」と自供した被害者・Eさんの遺体はまだ見つかっていなかった。それ以外にも、BさんとCさんの殺害時期には6年の間隔があることから、「この間にも短絡的に殺人を犯しているのでは?」と懸念する声もあがっていたのだった。 ◆裁判では一転、「殺害したのは知人」 Kの供述から、’95年5月29日に神戸市西区の雑木林で白骨死体で発見されたのは主婦Eさんだった。KはEさんが働いていた西成区内の立ち飲み屋で’85年5月下旬ごろに知り合い、自宅マンションに誘った。そこでEさんの飲酒を注意したところ、反抗されたためにカッとなって殺害したとのことだった。つまりEさんが最初の被害者ということになる。 Kは愛媛県の出身。旅館経営者の息子として生まれ、地元で結婚して割り箸を旅館に卸す仕事などをしていたが、妻と死別して’80年頃に西成区へ移住。盗品を飲食業の女性相手に売りさばいて生計を立てていた。知人によると「ふだんは温厚だが、酒を飲むとカッとなることがあった。怒るとすぐに首を絞める癖があった」という。 窃盗で逮捕されたとき、Kが最初に疑われたのはCさん、Dさんの事件だった。2人とは知り合いだという証言があったのだ。その一方で、10年前の事件でAさんが犯人と行ったとされる寿司屋周辺の地理に詳しかったこと、事件当時にKが借りたレンタカーの走行距離がAさんの遺体遺棄現場までの距離とぴったりだったことからAさんの事件での容疑が浮上。「挑戦状」の指紋を照合したところ、一致したという経緯があった。 裁判ではKは一転して「殺害したのは知人で自分は遺棄を手伝っただけ」と主張するが、言い分は認められず判決は死刑。控訴審でもKは無罪を主張し続けたが’05年7月8日に死刑が確定している。Kの死刑は’16年3月25日に大阪拘置所で執行された。 被害者の中でBさんの遺体だけをバラバラにしなかった理由についてKは「小さかったので切断せず、段ボール箱に入れて運んだ」と供述していた。彼にとって遺体はただの“モノ”でしかなかったのだ。Kの事件はオウム報道の陰に隠れてしまい、再逮捕以降の続報はほとんど報じられなかった。しかし、単純な動機で5人の女性を殺害し、遺体まで弄んだその犯行は犯罪史上でもまれに見る凶悪なものだったといえるだろう。