東大紛争(東大闘争)は、1968年から1969年にかけて東京大学で起こった大学紛争です。東大のシンボル安田講堂に学生が立てこもり、講堂は炎と水に包まれました。(アーカイブマネジメント部 疋田 智) ■医学部から全学部へ 東大紛争の発端は、東京大学医学部による登録医制度の導入でした。 インターン制度に代わるこの制度に、学生たちは「医師の労働力を安価に確保するための制度だ」と反発したのです。 1968年1月、医学部の学生たちは無期限のストライキに突入し、2月には学生と医局員が衝突しました。当局は17名を処分しましたが、そのうちの1人に誤認処分の疑いが浮上し、学生側は処分の撤回を強く求めました。 しかし大学側はこれに応じず、ここからいわゆる東大紛争はスタートします。 ■6月から立てこもりスタート 6月には一部の学生が安田講堂を占拠しました。これに対して大河内総長は警視庁の機動隊を学内に導入します。 このキャンパス内に機動隊を入れるという大学の対応は「大学自治を否定する行為!」として多くの教職員や学生の反発を招き、紛争は全学部に拡大していきました。 翌7月には「東大全学共闘会議(東大全共闘)」が結成され、学生たちは、全学共闘会議の承認や学費値上げの中止など「7項目要求」を掲げて大学側と対峙していくことになります。 ■立てこもりの長期化&セクト化 紛争の長期化に、大学側は一部譲歩しましたが、全共闘はそれを拒否し、10月にはすべての学部が無期限ストに突入し、「東大解体」といった過激な主張も展開されました。 一方で、民青系や無党派の学生グループも台頭し、学内では対立が激化していきました。大学対学生のみならず学生対学生(セクト対立)の闘争も過激化していったのです。 11月には大河内総長を含むすべての学部長が辞任し、新たに加藤一郎氏が総長代行に就任しました。 ■「安田講堂立てこもり」から入試中止へ 1969年1月10日、加藤代行と学生の代表団(各学部から代表を出した)は「確認書」に合意し、多くの学部でストライキが解除されました。