【忘れられた独立英雄を探す(下)】日帝の”強盗扱い”にも…「同胞の汚名を晴らす」毅然としていた活動家たち

80年前の光復(解放)は多くの殉国烈士の犠牲によって現実になった。この中には金九(キム・グ)や安重根(アン・ジュングン)のようには広く知られず、見えないところで粘り強く日帝に抵抗してきた隠れた独立活動家が多いが、その大半は記録もまともに残っていない。中央日報は光復80周年を迎え、独立記念館傘下の「独立活動家資料発掘TFチーム」が見つけ出した「忘れられた独立英雄」の痕跡を照明した。2018年に発足したTFチームが今まで発掘した独立活動家は計3595人。存在さえも知られていなかった英雄を共に記憶することで完全な光を取り戻す道にたどってみる。 「各部落に出没して脅迫状を送り…武器を持って威嚇した後、金品を強奪したり、官憲に通報した者には家族全員を惨殺すると拳銃を見せて威嚇したり…住民の恐怖は極めて深刻だった」(日本外務省特殊調査文書 第17巻) 脅迫や暴行を繰り返す凶悪犯の犯罪事実のように見えるが、これは日帝が満州で活動した独立運動団体『革新議会』の第3区募兵大隊長、金声鎮〔キム・ソンジン、1879~1934年、別名・金承国(キム・スングク〕〕の軍資金募集活動を描写したものだ。独立運動家を発掘する過程では、日帝が作成した文書が根拠になることも多く、このように独立運動を犯罪行為として貶めた箇所が至るところに見られる。彼らを単なる雑犯のように扱い、独立の意志をくじこうとする策略でもあった。 日本外務省特殊調査文書には金声鎮について「今年(1929年)初秋より間島(カンド)地方一帯に不逞鮮人が出没し被害が頻発…自称革新議会第3募兵大隊長金声鎮が指揮した一派20名が巧妙に警戒網をかいくぐり…一度に18名を検挙し現在厳重に取り調べ中」と記されている。不逞鮮人とは、騒乱を起こす朝鮮人という意味で、日帝が独立運動家を蔑称として用いていた。 実際、日帝が極悪犯罪者扱いしたことは、それだけ熱心に独立運動を展開していた証拠でもあった。金声鎮は1919年、中国延吉で『大同団』中部会新聞係および秘書として独立新聞を発刊し、独立運動資金を募った。1920年には『大韓国民会』総務庶務部長として活動した。日帝でさえ、大韓国民会について「組織が整っており、勢力も無視できない。寄付金募集の方法も他団体のような圧制的横暴を見せない、団員は約1000名と推測される」と説明している。 その後、『光復団』や『新民府』などで活動した金声鎮は、1921年に革新議会で募兵大隊長を務め、本格的に軍資金調達に乗り出したが、1929年12月11日、竜井で逮捕された。 日帝は金声鎮を強盗罪で起訴した。金声鎮が「強盗」で奪ったとされる金額は約1万ウォンと記録されている。当時、コメ1俵の価格が20円にも満たなかったことを考えると、金声鎮は現代の感覚で1億円を超える巨額を独立運動資金として集めたことになる。 報道によれば、金声鎮は公判過程でも堂々と応じた。『朝鮮日報』は彼を「新民府・金佐鎭の部下」と報じているが、並外れた気概を示していたと推察される。 1930年9月1日、清津地方法院で開かれた公判に現れた彼は「老いた体で海外の風霜をどれほど経験したのか、疲れた額にはしわがびっしりと刻まれていたが、なおも厳然たる態度で取り調べに応じた」とされている(『東亜日報』報道)。 これによると、金声鎮が間島に赴いた目的についての質問に対し、「朝鮮が日本に合邦された後、間島に移民が多く入り、産業を奨励し、学校を設立して子弟を教育し、2000万の同胞の汚名を晴らすために行った」と答えた。また、30歳で間島に行ったことについて「20歳から23歳まで軍人としての務めを果たした」と自己紹介もした。「日・韓合邦に不満を抱いて行ったのか」という質問には迷わず「そうだ」と答えた。 金声鎮はすべての嫌疑を認めたとされるが、それは日帝が着せた強盗罪ではなく、強制併合に抵抗するための独立運動であったことを毅然と示したものである。しかし、判決文では「被告は中国に移住して以来、朝鮮独立を夢想し、良民から資金を募るなど努力した者」と貶めて記された。 金声鎮は10年刑を宣告され、服役中に獄中で殉国した。日帝はこれを単に「病死」と記録した。 1920年、‘大韓民国政府忠南(チュンナム)支部特派員’として独立運動資金の募集に乗り出した柳昌烈(リュ・チャンニョル、1894年12月生)も、日帝によって恐喝未遂などの嫌疑で起訴された。 判決文では柳昌烈について「以前から朝鮮独立を希望していた者で…‘愛国心を持つ朝鮮人同胞は当然資金を出せ。応じなければ(臨時政府の判決として)死刑を執行する’と書かれた文書を作り恐喝を試みた」と表現されている。柳昌烈が「上海臨時政府員と称して金銭を巻き上げようとしたが、その前に警察官に捕まり徴収の目的を果たせなかった」というものだ。 公州(コンジュ)地方法院は彼に恐喝未遂などで懲役1年を宣告、柳昌烈は西大門(ソデムン)刑務所で服役した。日帝は独立資金募集活動を犯罪行為として仕立て、実刑を言い渡すために利用したのだ。

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