売れっ子スポーツライターは、なぜ医師の家族を殺したのか?【ロボトミー殺人事件(2)】

前編「いまでは“封印同然の精神外科手術”の経験者が、医師の家族を殺害【ロボトミー殺人事件(1)】」の続き 1979年9月26日夜、東京都小平市の民家で、TさんとMさんという二人の女性が殺害され、別件で身柄を拘束されていたSが犯人と特定された。 Sの供述によれば、本来の標的はTさんの義理の息子で、Mさんの夫である精神科医Kさんだった。Sは事件の約15年前、精神科医Kさんの指示で広義にはロボトミー(前頭葉白質切截術)に含めて報じられることのあるチングレクトミー(前部帯状回切除術)を受けた。しかし、術後は意欲の低下や感受性の鈍さを実感するとともに、てんかん発作を繰り返すようになり、Kさんに憎しみを抱くようになったという(*1)。 復讐を企てたSは、Kさんの自宅にデパートの配達員を装って侵入し、在宅していたTさん、その後に帰宅したMさんの命を奪った。しかし、Kさんがいつまでたっても戻らなかったため、金品を奪って逃走した。同日中、池袋駅での職務質問で切り出しナイフの携行が発覚し、銃刀法違反で現行犯逮捕となったSは、捜査員に自身の過去と犯行の経緯を語り始めた。 (*1)本稿では通称に倣い事件名を「ロボトミー殺人事件」とするが、Sが受けた「チングレクトミー」は、古典的ロボトミーと異なる局所的な術式である。 ■通訳として活躍したがトラブルが重なり刑務所へ この事件の背景を理解するには、Sが犯行に至るまでの来歴を確認しておきたい。当時の新聞(一次報道)を主とし、関係資料、後年の事件ルポを補助に、Sの半生を整理してみた。 1929年1月に長野県で生まれたSは、家庭の経済事情により、10代半ばから作業員として働き始めた。終戦後の占領期には、図書館に通って読書を重ね、英語の勉強に励んだ一方で、ボクシングやボディビルで身体を鍛えた。特に英語に強い関心を示し、英会話は短期間で一定の水準に達したとされる。 その後、新潟で通訳として働いたが、思うところあって自殺未遂に及んだ。後日、立て直しを図るために上京し、予備校で英語を教えたものの、都会の雑音が負担となって母が住む松本へ戻った。松本では英語力を活かした職ではなく、土木作業員に転じた。現場では同僚とのトラブルがあり、相手を殴り倒してしまった。さらに手抜き工事を社長に直訴した際に、口止め料のような形で差し出された現金を受け取ったことが仇となった。殴った同僚に訴えられたことで、暴行のうえに恐喝の容疑もプラスされたSは、執行猶予付きの懲役判決を受けた。次に働いた現場でも賃金不払いをめぐって会社側と対立し、再び恐喝容疑で逮捕されたため、執行猶予は取り消され、約2年半の服役に至ったとされる。 ■スポーツライターの先駆けとして人生を再構築も 1961年に出所すると、もともと作家志望だったSは英語力と通訳時代に得た海外情報を活かし、プロレスやボクシングの海外動向を主に扱うスポーツ評論家・ライターへ転身した。専門誌で健筆を奮う売れっ子となり、30代にしてSの人生はV字回復したといえる状態となった。古いプロレス&ボクシング雑誌に、Sのペンネームを確認できる。 ところがそんな時代は長く続かなかった。1964年、妹夫婦宅にてトラブルから室内の物を壊してしまったため、器物損壊罪でまたも逮捕となってしまったのだ。被害届は取り下げられたが、釈放を強く求めた姿勢が精神鑑定の対象となった。その結果、Kさんが勤務し、精神外科手術を実施していた精神科施設「A保養院」へ入院することになった。入院後も執筆を続けたSは、精神外科手術を受けることを固く拒否していたが、主治医のKさんが母親から同意を得て、手術に至ったと伝えられる。 ■手術を受けた後はライターを続けられず 術後、退院したSは本格的に執筆の再開を試みたが筆が進まず、Kさんの指示で再入院したとされる。ジャーナリスト・佐藤友之氏の著書『ロボトミー殺人事件 いま明かされる精神病院の恐怖』(ローレル書房/1984年)のP34には、〝Kさんは、早期に病院から出たがっていたSに、退院の条件として、既に実施済みの手術への承諾書へ署名を求めた〟という旨が記されている。 退院後、Sは意欲の低下でいよいよ執筆を続けられず、ライター業を断念。大型特殊自動車免許を取得して転職を図ったが、術後のてんかん発作に悩まされ継続が不可能に。その後は職を転々とし、生活が行き詰まるなかで貴金属店の強盗に及び、現行犯で逮捕された。裁判では刑事責任能力が認められ、懲役刑の判決を受ける。出所時、Sは46歳になっていた。 後編に続く

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