東大医学部が生んでしまう「権威に従順な小悪党」の起源

前回、昨年11月から1月にかけて教員2人が逮捕された東京大学医学部の不祥事を、明治期以降の歴史的経緯を踏まえて論じた。今回も、この問題を考えたい。 東大医学部には1975年の卒業生がいない(留年生などを除く)。安田講堂事件の影響で、1969年の入試が中止されたためである。私が東大理科三類に合格してから39年が経つ。この間、多くの鉄門(東大医学部卒業生)関係者と接してきたが、1974年以前の卒業生と1976年以降の卒業生では、気質に大きな違いを感じることが少なくない。今回の不祥事の背景には、こうした断絶も影を落としているように思われる。 東大医学部の「性格」を形づくった要因として、明治期の開学の経緯と、第二次世界大戦の敗戦がある。とりわけ直接的な影響は後者が大きかったのではないか。この点は、これまで十分に論じられてこなかった。 東大医学部は、戦時体制の中で戦争遂行に深く関与した。場合によっては主導的役割を担ったと言ってよい。日米開戦時の東條内閣の顔ぶれを見れば、その一端がうかがえる。 文部大臣を務めた橋田邦彦は、1908年に東大を卒業した基礎医学者で、生理学教授、第一高等学校長を歴任した。1940年の第二次近衛内閣で文部大臣に就任し、東條内閣でも1943年4月まで在任した。軍部の意向に全面的に追随したわけではないが、在任中に学徒動員を推進した。 厚生大臣を務めた小泉親彦も鉄門である。1908年に東大を卒業し、軍医の道を歩んだ。陸軍軍医総監、陸軍省医務局長を経て、1941年の第三次近衛内閣で厚生大臣に就任し、1944年7月まで在任した。健兵健民政策を推進し、戦争遂行体制の強化に貢献した。 橋田、小泉は、東大と陸軍省という異なる組織に身を置きながら、いずれも国家の枠組みの中で栄達し、最終的に大臣にまで上り詰めた。当時の鉄門にとっての「成功モデル」だったのだろう。なお、両名とも戦犯容疑で出頭を求められた際に自決している。 私はこの世代を直接知らない。鉄門の先輩たちが彼らの名を口にすることも、ほとんどなかった。私が40代になり、東大医学部のあり方に疑問を抱くようになってから、ようやく関心を持ち、この世代の価値観やキャリアを調べ始めた。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする