イスラエルの暴挙はいまに始まったことではないーーナチス・ドイツから逃れ、パレスチナに移住した父の受難

イスラエルによるガザ攻撃は、ジェノサイドであると国際的な批判がたかまっている。あるアメリカ人作家は、80年前にナチス・ドイツに迫害され、あるいは虐殺されたユダヤ人たちと今日過酷な状況にあるパレスチナ人たちを重ね合わせ、警告の声をあげている。 その作家は、奇想天外なショートショート集『一人の男が飛行機から飛び降りる』、『ケータイ・ストーリーズ』(ともに柴田元幸訳)などでカルト的な人気を誇るアメリカ人小説家のバリー・ユアグロー。 彼の父はベルリン大学でアインシュタインに物理を学び、文豪ヘルマン・ヘッセと文通するなどドイツのワイマール文化を謳歌していた。が、ヒットラーが政権を奪取した1933年、ナチ突撃隊に襲われ、数週間の潜伏後、偽造パスポートを持って国外脱出し、パレスチナのユダヤ人社会に移住した。しかし、そこでもまた有害なナショナリズムが吹き荒れ、テロが横行していたーー。 ユアグローが亡き父の歩みを振り返りながら、今日のパレスチナ問題を考えるエッセイを紹介する。 *** 一九三三年四月一日、ナチスがユダヤ系企業製品をボイコットした日に、当時二十四歳だった私の父ヴォルフガング・ユールグラウ〔※Yourgrauのドイツ語読み〕は、ベルリンの商店店内でナチ突撃隊に襲われた。猛烈に反撃したものの(父は大学のボクシング選手だったのだ)、多勢に無勢、袋叩きにされた。が、ほとんどグロテスクとも言うべき幸運に恵まれて怪我から回復し、逮捕もされずに済んだ。かつての女友だちが経営する、ナチスのご婦人方を顧客とする婦人科サナトリウムに匿(かくま)ってもらったのである。さらに数週間ベルリンに潜伏していた末に、ドイツ文化に同化したユダヤ人で、声高な反ファシスト、のちには世界的に知られる物理学者・哲学者となる私の父親は、偽造パスポートを使ってドイツを去り、もはや崩壊したワイマール共和国を去った。そして一九三四年から四八年にかけて、イギリスの委任統治領であったパレスチナに逃れていた――シオニストとしてではなく(すなわち、ユダヤ民族の国家樹立をめざしたわけではなく)、政治的亡命者として。 ナチスとの血まみれの殴り合いと、スリル満点の逃亡。私が少年だった一九六〇年代のデンヴァーで(父はデンヴァー大の教授だった)、それは家族内伝承の欠かせぬ一部だった。ロッキー・マウンテンにあった自宅のリビングルームで、ピンクジンで気分もメロウになった父が、ベルリン時代の興味津々の逸話をあれこれ語るなか、これは主役級のエピソードだったし、私にとっても、父がアインシュタイン、シュレディンガーの下で学ぶ学生だった話と並んで、はるか昔、霞みがかった若き日の冒険譚のハイライトだった。 一方、母のテラは、南アフリカ出身の、一九三〇年代にパレスチナに移住した(父のように切迫した理由はなかった)ユダヤ人で、一九四六年、エルサレムのキング・デイヴィッド・ホテルのイギリス軍オフィスで秘書として働いていたときにシオニストのテロリストがホテルを爆破した事件のことを何度もくり返し語った。死者九十一人のうち、アラブ人は四十一人、ユダヤ人は十七人。まったくの幸運により、母はその日仕事が休みでビーチに出かけていたのである。 父もイスラエル建国以前のパレスチナにおいて、シオニストのテロリズムと穏やかならざる接触を体験していたが、その経験については黙して語らなかった。パレスチナに住んだあいだ、父は『オリエント』と題する、物議を醸したドイツ語の政治・文化週刊誌を刊行した。ドン・キホーテ風に理想主義の、短命に終わった雑誌とはいえ、ドイツ亡命者の言論の場として――ヒトラーを逃れた、ドイツ語を話す、トーマス・マンやベルトルト・ブレヒトのような人々のための媒体として――いまも認知されている。パレスチナにおいてそうした言論を引き受ける前哨地として、『オリエント』はすでにこの地で始動していた勢力を、そしてドイツ系ユダヤ人難民の一部が味わった苦難を垣間見せてくれる興味深い窓となっている。ほぼ一年にわたり、イシューヴ(一九四八年イスラエル建国以前のパレスチナにおけるユダヤ人共同体)の各方面から敵意を浴びつづけた末に、『オリエント』は結局印刷所を爆破されて沈黙に追い込まれた。 こうしたすべてを私が知ったのは、父が死んだずっとあと、十年前に自分の回想録Mess(『片付けられない』未邦訳)を書くためにリサーチをしていた最中のことだ。二〇二三年十月七日にハマスがイスラエルを奇襲し、悲惨な事態が始まったのち、さらに詳しく調べてみると、父の亡命生活をめぐる物語は、現代にも通じる教訓を含む話であることを私は痛感した。イスラエル建国に向かって渦巻く水流の、暗い、殺意に満ちたバージョンをその物語は呼び起こす。そしてその水流はそのまま、数十年流れつづけて、今日のガザとヨルダン川西岸での惨状にたどり着く。この物語はさらに、国家主義的なシオニズムが冷酷な力に訴え、そうした力を信条とさえすることがユダヤ人たちにも見えるようになったのはごく最近のことだ、という気休めのおはなしを切り崩す。パレスチナのユダヤ人たちはユダヤ民族国家設立をめざすシオニズムの下で一致団結していたという見方についても同様である。ごく初期から反対者は存在したのであり、反対者は蔑まれたのみならず、多くの場合、悪意に満ちた迫害を受けたのだ。 この文脈で見るとき、ファシズムや有害なナショナリズムはどこでも生じうるのであって、シオニストたちの中で生じても不思議はない、という私の父の執拗な主張は、きわめて切実な教えとして迫ってくる。まさに今日、イスラエルにおいて、そして何とも不気味なことにドイツにおいても、パレスチナを支持する声が抑えつけられているなか、大きな警告の声をそれは上げている。「全体主義の亡霊が(……)ユダヤ陣営を混乱に陥れている」と父は一九四三年初頭に書いた。「出会ったらどこであれ、そいつの喉を捕まえよ」と父は訴えている。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする