【井原正巳 我が道27】現役最後はオフト監督の元で ガタガタの体で引退を決断

W杯フランス大会が終わると、日本代表監督にはフィリップ・トルシエが就任、私も「もう一度W杯にチャレンジしよう」と、02年W杯へ向けて気持ちを切り替えた。99年6月から7月に日本代表は南米選手権に招待されて、パラグアイに遠征した。3試合目の1次リーグ最終戦ボリビア戦は1―1で引き分けたが、後半37分に私は退場になった。同点の場面で日本がFKを得て私が蹴ろうとした時、遅延行為を取られ、この試合2枚目のイエロー。この状況で遅延することはない。日本代表122試合目で、最後の試合になった。 この話は続きがあって、この時のバイロン・モレノ主審(エクアドル)は02年W杯でも、決勝トーナメント1回戦の韓国―イタリア戦でトッティを警告2枚で退場にし、延長後半のイタリアのゴールをオフサイドとして認めず韓国が2―1で勝利、「世紀の誤審」と言われた。10年に米国でヘロイン所持で逮捕され、懲役2年6月の判決を受けたという記事を読んだこともある。この時の退場は今でも納得していない。 この年は横浜マリノスでプレーするのも最後となった。10月に横浜Mと横浜フリューゲルスとの合併が明らかになったが、実は横浜Mの親会社の日産も経営問題が浮上していて、カルロス・ゴーン社長が、座間工場の閉鎖など大ナタを振るっていた。横浜Mも例外ではなく、日本人選手としては最高の年俸をもらっていた私もゼロ円提示を受けた。 プロになった時から「いつかはこういう日が来る」と思っていたので、文句を言うつもりはなかった。選手としてやれる自信があったので、すぐにチームを探し、ジュビロ磐田に移籍することになった。「強いチームでやりたい」と思っていたので、99年Jリーグ王者の磐田なら申し分ない。だが、シーズン途中で鈴木政一監督が就任すると、若手を起用することが多くなり、出場機会が激減した。 私は試合に出たかったので、1年で退団し、元日本代表監督の横山謙三さんがGMをやっていた浦和レッズに移籍した。J2に降格し、1年でJ1に復帰を決めた年で、「もう一度強いレッズをつくってくれ。お前の力が必要だ」と言われた。2年目の02年はオフトが監督に就任。CBとしてコンスタントに起用されていたが、その年の夏、オフトに呼ばれて「来年は選手としては考えていない」と言われた。既に私の体もガタガタで潮時だと思い、新たなチームを探すことはしなかった。若手も育ち、やり尽くした感じだったので、引退を決断した。 この年はナビスコカップ(現ルヴァン杯)決勝に進出したが、決勝で鹿島に0―1で敗れた。決勝点は小笠原満男のシュートが私に当たってコースが変わってゴールに入ってしまった。翌年も決勝は同じカードで、鹿島を4―0で破って優勝したが、「前年の教訓が生きた」と思っている。それにしても、最後にオフト監督とやれたのはよかった。 ◇井原 正巳(いはら・まさみ)1967年(昭42)9月18日生まれ、滋賀県出身の57歳。守山高から筑波大を経て横浜Mの前身の日産入り。磐田と浦和でもプレー。アジアの壁と言われ、大学2年生の時に日本代表入り、ドーハの悲劇とジョホールバルの歓喜を経験、98年W杯フランス大会に主将として出場。代表通算122試合。引退後は北京五輪代表コーチ、柏コーチ、福岡監督、柏監督を務めた。現在は解説者、6月にU―20Jリーグ選抜監督も務めた。7月から韓国2部・水原コーチ。

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