この度、『巨匠とマルガリータ』の新訳について評論せよというお題を頂いた。正直、かなり慄いている。 私はフリーの物書きで食っていた時代が長く、したがって原稿の依頼はなるべく断らない、という方針で生きてきた。依頼されたことはないが、「おいしいカレーの作り方」について書けと言われたら(原稿料によっては)書いただろうと思う。 だが、ことは『巨匠とマルガリータ』だ。20世紀ロシア文学の、まさに「巨匠」と呼ぶべきミハイル・ブルガーコフが、10年以上の歳月をかけたという大作である。ロシア軍事オタクが昂じて何となく職業にしてしまった、という程度しかロシアとの付き合いがない私が、軽々に論じてよい作品ではあるまい。幸い、本書の巻末には、今回の翻訳を見事に成し遂げられた石井信介氏による詳細なガイドが付されているから、文学史的な読み解き方はそちらを参照願いたい。 代わってこの文章で論じてみたいのは、『巨匠とマルガリータ』世界の「ソ連ぽくなさ」である。人々の暮らしぶりや物腰が、なんとなくおっとりしているのだ。 その直接的な理由は、登場人物たちがある種の特権階級に属していることに求められるだろう。おそらくブルガーコフの周辺人物たちをモデルにしたと思われる文学者や劇場関係者たちはソ連社会のエリートであり、したがって一般庶民よりも格段にいい暮らしをしていた。なにしろ「あらゆる色の何百もの更紗」に「キャラコ、シフォン、燕尾服用のラシャ」(外貨専用商店トルグシンの品揃え)である。あるいは「新鮮なイクラと一緒に鉢に盛られたサラダ菜」、「水滴がついた銀製のワインクーラー」、「エゾライチョウの胸肉」(グリボエドフの家のレストランのメニュー)だ。共同住宅で一緒に暮らす同居人の鍋からペリメニだって掠め取ろうという庶民たちとはわけが違う。 共産主義の理想が結局は帝政時代と変わらぬ格差社会に堕しているではないか、というブルガーコフの告発は明らかだ。突如としてモスクワに現れて全てをめちゃくちゃにしていく悪魔の一団は、裏切られたユートピアを告発する検察官役ということになろうか。 だが、それだけでは説明がつかない部分もある。『巨匠とマルガリータ』の執筆は1928─1929年頃に始まり、1940年のブルガーコフ死去の直前まで続いたというが、これはちょうどスターリンによる弾圧が強まり、最高潮の恐怖政治にまで達する時期である。実際、作中の登場人物たちはある「機関」の影に常に怯えている。これがスターリンの弾圧マシーン、内務人民委員部(NKVD)であることはいちいち説明するまでもないだろう。しかもNKVDはただ庶民を弾圧するだけでなく、党幹部に将軍、はてはNKVD自身の指導部まで逮捕・処刑していく化け物であった(悪魔の舞踏会でマルガリータにお目通りする最後のゲストに注目)。 しかし、この点は、エリートたちの腐敗ほどにははっきりと告発されていない。ことあるごとに警官がすっ飛んできて、やたらと人間が逮捕されるものの、あまり非人道的な様子が見られないのだ。少なくとも現実のNKVDのように殴る蹴るの暴行を加えて無理やり供述調書にサインさせているようには見えない。 ブルガーコフがこうした実態を知らなかったということはありえない。同僚たちが次々と粛清され、本人もスターリンから個人的に睨まれて作品の発表も思うに任せなかったというブルガーコフのことである。スターリン体制の過酷さは身に染みてわかっていよう。 そのことは、よく読めばわかるようになってはいる。逮捕された巨匠が釈放されたときには廃人のようになっていたことを思えばよい。あるいはボソイ組合長の夢で繰り広げられる「演(だ)し物」が公開裁判を思わせることは石井氏の解説にもあるとおりだ。 ただ、そうしたどぎつさは、あまり作品の前面に出てこない。恐怖支配のエグい実態は軽妙な文体の下からチラチラと覗く程度であって、全体的にはファンタジー読み物のように読めてしまうのだ。これが商業作家としてのブルガーコフの販売戦略であったのか、そうでもしないと世に出せないという覚悟であったのか。ブルガーコフ研究者の見解を聞いてみたいところだが、この作品を「読んで楽しい地獄」とでも呼ぶべきものに仕上げたブルガーコフの魔術的手腕には、ある種の凄みを感じさせられた。 ちなみに『巨匠とマルガリータ』では二つの物語が同時並行していく。ここまで述べてきた、モスクワに現れた悪魔をめぐる物語と、キリストに惹かれながらも処刑せざるを得なかったローマ総督ピラトの物語である。このうちの後者ではエルサレムの街が黒雲に包まれ、それが晴れた後にピラトの絶望が残る。彼は2000年苦しんだのちに、巨匠によってようやく赦される。では、同じように黒雲に包まれたモスクワはどうなるのか。ピラト=スターリンは? その死後、たった70年ほどを経たに過ぎない彼にはまだ赦しは訪れないだろう。なにしろモスクワには、まだ新たなピラト=プーチンが居座っているのだし。 [レビュアー]小泉悠(東京大学先端科学技術研究センター准教授) 1982年千葉県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修了。民間企業勤務を経て、外務省専門分析員、ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所客員研究員として2009年〜2011年ロシアに滞在。公益財団法人「未来工学研究所」で客員研究員を務めたのち、2019年3月から現職。専門はロシアの軍事・安全保障。主著に『軍事大国ロシア 新たな世界戦略と行動原理』『プーチンの国家戦略 岐路に立つ「強国」ロシア』『「帝国」ロシアの地政学 「勢力圏」で読むユーラシア戦略』。ロシア専門家としてメディア出演多数。 協力:新潮社 新潮社 波 Book Bang編集部 新潮社