高市首相の自維連立はいつまで続くか…船出したばかりの新政権が抱える「重すぎる足枷」

高市早苗氏が第104代首相に指名された。高市新総理率いる与党の行く末はどうなるのか。代表作に『平成史』(文藝春秋)のある評論家の與那覇潤氏は「高市氏についた『安倍晋三を継ぐ女』のイメージが重い足枷になる可能性がある」という――。 ■自民の維新取り込みは「平成史の逆再生」 平成史のカセットテープを、「逆向きに再生」するような形で、高市早苗氏が初の女性首相に就いた。 高市氏の初当選は、自民党を下野させたことで歴史に残る1993年の衆院選。当時は無所属で、リベラルを名乗っていた。同じ選挙でのデビュー組には、後に平成の政治を動かす人が多く、首相も安倍晋三・野田佳彦(初当選時は日本新党)・岸田文雄に続く4人目になる。 実はこの総選挙、宮澤喜一首相の自民党は必ずしも「負けて」おらず、公示前からむしろ1議席増やしてさえいた。それでも政権を失うことになったのは、新生党・新党さきがけの2つの新党が、選挙前に分離してしまったためだ。 後に総理大臣になる小泉純一郎は、結果を見てすぐ、日本新党を率いる細川護熙を「自民が首相に推す」形の連立を思いついた。細川がもとは自民党の参院議員だったためだが、このときは新生党の小沢一郎の手腕がまさり、細川は「非自民連立」の首班となる。 今回も、公明党が連立を離脱したことで自民党が窮地に立ち、一時は「立憲・国民・維新」(ないしさらに公明)での非自民政権の噂が立った。実現すれば選挙を挟まないだけで、まさしく1993年の再来だった。 しかし高市自民党はあっさり日本維新の会を取り込み、新たな連立での政権維持を決めた。その意味で令和の政治はこれから、「平成」とは逆の向きに走り出すことになる。 ■令和の「非自民連立」挫折の真因 なぜ今回、細川政権のような形で「非自民」は手を組めなかったか。大義名分がなかったからだ。1993年には「政治改革」、つまり選挙制度の抜本改正が、どの勢力でも乗れる時代のムードになっていたが、それに相当するものがない。 当時、自民党にも「政治改革」の支持者は多く、下野した後に離党して非自民政権に駆け込む人が続出した。高市氏が後に夫となる山本拓氏らの離党組と組んで、自由党(柿澤自由党)を作ったのは1994年4月だ。 だがせっかく参画した羽田孜内閣は2カ月の短命で、自民党が想定外の形で政権を取り戻し(自社さ連立)、彼らは野党になってしまう。別のルートで自民党を離れ、「改革の会」として羽田政権に加わっていた石破茂氏も、同じ運命を味わった。 柿澤自由党で高市氏と同僚だった議員に、新井将敬がいる。もとは自民党きっての「若手改革派」として知られ、TVの政治番組の常連として視聴者の人気を得ていた。やがて石破・高市の両氏も、総理の座を狙って占めることになるポジションを、先取りした人だった。

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