ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(289)

そのためには認識運動を押し進め、戦勝派の盟友たちを覚醒させ、自分の側に引き戻す必要があると考えた。 下元がその戦略を打ち出した初期の段階では、戦勝派と敗戦派の関係は、まだ意見の対立に過ぎなかった。 彼は自分の弁舌に自信を持っていた。五、〇〇〇の盟友を糾合した舌である。だから今回も説き伏せることができると思っていた。 しかし、以後、戦勝派でも敗戦派でも、状況誤認の連鎖が続き、対立の内容は変質、抗争化、先鋭化、険悪化して殺気を帯び、遂には血を見るに至った。 説得などという生易しい手段が通用する段階ではなくなって行ったのである。それも短期間に、急速に…。 下元は、事態がそんな具合に進むとは、予想して居なかったのであろう。 そして失敗した。 失敗の根は、実は戦時中に芽生えていた。 コチアは薄荷生産者のために、抽出油の精製工場を建設中だった。薄荷を生産する組合員の要望によるものであったが、他の同業者を組合に加入させる意図もあったろう。 その薄荷農場(含、加工施設)が次々、襲撃されるという事件が起きた。(十章参照) 襲撃を扇動・指揮しているのは興道社であると誤認された。事実は違っていたが、信じる向きが多かった。下元もそうだった。 興道社は終戦直前、改名、臣道連盟となった。戦勝派の牙城視された。 下元は薄荷農場襲撃に激怒し、その感情が後々まで続いていた。それが「戦勝派憎し」に転化、認識運動への取り組みに感情が入り過ぎた。さらに戦勝派を憤慨させる言動をしてしまった。 常盤ホテルでの集会では、 「戦勝派を抑えるため警察を動かす。彼らを逮捕させる。食料はコチアが持つ」 とまで言い切ったという。 後に、戦勝派が大量に拘禁されたDOPSや未決囚拘置所に、コチアのマークを車体に記した貨物自動車が出入りし、被拘禁者から目撃された。 これが戦勝派に広く伝わった。 下元に対する敵意が強まった。 彼が感情に奔ったことが、事態をより悪化させたのである。 彼は、ほかにも失敗を犯している。 コチア産組で週報を発行、組合員に配布した。が、これが逆効果を招いた。 内容は敗戦派の主張に偏り、しかも正確さを欠いていた。 その記事は、担当した職員が執筆したものだが、当然、下元も目を通していた筈だ。 週報の失敗に気づかず、彼はパウリスタ新聞の発刊にも参画した。新聞を通じて認識運動を推進しようとしたのだ。 そのため有力組合員に出資を求めたり、組合の金を一時流用したりした。経営にも加わった。 しかし、彼の主張には反対が強く、投げ出してしまった。 後から考えれば、下元は、認識運動などすべきではなかったのだ。 戦争の勝敗問題と産組の再編成・一本化、新社会建設は何の関係もないことであった。 後者のみに専念すべきであった。 むしろ、その方が両派の融合にも役立ったであろう。 新しい目標に注意を向けさせ、熱中させ、対立気分は、その中に呑み込んで行けばよかったのである。 産青連の盟友は、元々は下元に心酔していた。新社会建設は彼らの目標であり、夢であった。それに熱狂したのは数年前のことである。 年齢的にも、その属する組合の若手から中堅に育ちつつあった。 やがて産組中央会の反下元派に取って代わることも可能だった。 つまり、下元の戦略は正しかったとしても、作戦と戦術を間違えたのだ。 各産組、各様に… 下元健吉の野心的戦略は成らなかった。が、各産組は各々、躍動的に再出発中であった。 コチアは、終戦の翌一九四六年三月末で、組合員は三、六〇〇人、事業所は二十二カ所になっていた。 下元は専務理事に復帰、理事長はフェラースが続けていた。 終戦と共に、各産組のインテルヴェントール(監査官)は逐次、引き上げた。が、理事の中には以後も長く留まったケースがある。組合側が、そう計らったのである。 フェラースは、その代表例である。彼は下元の信頼を得ていた。 コチアの事業量は、例えば販売部門は、一九五〇年代初期には、サンパウロの中央市場で取引きされるバタタの六〇㌫、トマテの八〇㌫、鶏卵の七〇㌫、蔬菜の八〇㌫、果実の六五㌫のシェアを占める…という勢いだった。 さらに右の近郊型生産物のほか、綿が増えており、大西洋岸のレジストロ方面ではバナナが同様であった。バナナは船でサントスへ運び輸出していた。 事業は州外へも広まっていた。(戦前からのリオ・デ・ジャネイロのほか)ミナス、パラナへ…と。

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