プロ野球界には死球によって引退に追い込まれた選手も存在する。かつての阪神の主砲・掛布雅之も、死球イコール引退ではなかったものの、ひとつの死球をきっかけに、その後さまざまな負のスパイラルによって成績が低下。33歳の若さでユニホームを脱いだ。すべては今から40年前、1986年4月20日の中日戦で受けた死球に端を発していた。 1985年、阪神の4番・掛布は打率.300、40本塁打、108打点をマーク。チームの21年ぶり優勝と2リーグ制以降球団初の日本一に大きく貢献した。 だが、連覇が期待された翌86年、チームは開幕4連敗を喫し、10試合消化時点で3勝7敗と出遅れてしまう。開幕直後は好調だった掛布のバットも、4月10日のヤクルト戦から5試合連続無安打と快音が聞かれなくなった。 そんな一時の不振も、4月18日の中日戦で4打数3安打の猛打賞を記録すると、再び当たりが戻ってくる。翌19日には8試合ぶりの先制2号2ランが飛び出し、20日の中日戦でも4回に2試合連続の3号2ランと、本来のバッティングを取り戻したかに見えた。 ところが、好事魔多し。6回無死一塁の4打席目、カウント0-1から中日のドラフト1位ルーキー・斉藤学が右サイドから投じた2球目が顔面付近を襲ってきた。ボールは本能的に突き出した左手首を直撃し、その場に倒れ込んだ掛布は激痛に苦悶の表情を浮かべた。 自著『虎と巨人』(中央公論社)によれば、中日ベンチから「頭に行け!」という声が聞こえてきたように感じた掛布は、「インハイのストレートをライトスタンドに放り込んで、中日ベンチを黙らせたい」の思いから、初球の外角から入ってくる甘いスライダーを見送り、内角を待っていたという。この攻撃的な気持ちが裏目に出て、危険球に対する反応が遅れてしまった。 病院検査の結果、骨折で全治1ヵ月と診断され、6年越しで続いていた連続試合出場も「663」で途切れた。 「とても痛い。調子が出てきたところなので、本当に残念だ」と悔しがった掛布だったが、翌日、斉藤が豊中市の自宅を訪れ、平身低頭謝罪すると、「気にしないで。これからも伸び伸び投げてよ。攻めるところは攻めなくっちゃ」と励ます“神対応”を見せている。 この時点で、これが2年後の引退劇の起点になろうとは、誰が想像しただろうか?