F1界のベテラン、スティーブ・ニールセンは、約2カ月にわたり、アルピーヌのエグゼクティブアドバイザーを務めるフラビオ・ブリアトーレからオファーを持ちかけられ、最初は乗り気でなかったものの、ついにこれを受け入れた。アルピーヌは、7月4日、ニールセンが9月1日付でマネージングディレクターとして加入することを発表した。 今年5月、チーム代表を務めたオリバー・オークスが、弟でありFIA F2チームのハイテック・グランプリの取締役であるウイリアム・オークスが逮捕された後に辞任。ブリアトーレは、エンストンの運営、グランプリウイークエンド中のサーキットにおける運営を任せるべき人物は、自身の下でスポーティングディレクターとして働いていた経験を持つニールセンであると強く確信した。 しかしながら、ニールセンは、自分の生活が大きく変化することを拒んだ。というのも、彼はここ数年、南フランスのカンヌに家族とともに定住しており、妻子と離れて暮らすことも、彼らをイギリスへ移住させることも望んでいなかったからだ。 ブリアトーレは、チームとニールセンの双方にとって都合の良い形を模索するために、提案内容を繰り返し変更した。そして最終的に成功を収めたわけだ。 ニールセンは、F1パドック内で最も尊敬され、かつ経験豊富な人物のひとりだ。F1キャリアは1986年にチーム・ロータスで始まり、そこで昇進を重ねた後、1990年代初頭にティレルへ移籍し、チームマネージャーに就任した。 1998年末までケン・ティレル率いるチームに在籍したが、チームのエントリー権はブリティッシュ・アメリカン・タバコに売却され、同社は自身のF1チームを立ち上げた。ニールセンはその後、2000年から本格的にF1に参戦しようとしていたホンダにスポーティングディレクターとして雇われた。 しかしそのプロジェクトは1999年夏に頓挫し、ニールセンは自らの責任として、当時彼が統括していた現場運営に関わっていた60人以上のスタッフに新たな職を見つけることに奔走した。スタッフの大多数はトム・ウォーキンショー率いるアロウズに転職することとなった。 このようにスタッフを守る姿勢にウォーキンショーは深く感銘を受け、最終的に自身のチームのスポーティングディレクターとしてニールセンを雇用した。その後、ニールセンはルノーに移籍し、2005年および2006年にフェルナンド・アロンソがタイトルを獲得した際のチームの中核メンバーとなった。しかし2009年夏、“クラッシュゲート”事件の発覚を受け、チーム経営陣に裏切られたと感じたことから、彼は辞職を決意した。 すでにパドック内で高い評価を得ていたニールセンは、すぐにケータハムで仕事を見つけ、そこでかつてのティレル時代の同僚であるマイク・ガスコインと再会した。その後2013年初頭にスクーデリア・トロロッソで上級職に就き、2シーズンにわたり同チームに在籍した。その後には、ウイリアムズに雇用され、2014年から2017年までの復活期において、歴史あるイギリスチームを支えた。 その後、ニールセンは、ロス・ブラウンによりフォーミュラワン・グループのスポーティングディレクターとして登用された。この職務において、ニールセンは新型コロナウイルスがもたらす困難に対するF1独自の対応を主導した。政府、保健・地方当局、サーキット所有者、各チーム、FIAのロジスティクス部門と連携し、シーズンを完遂させるための効率的なシステムを構築したのだ。 この時の彼の働きは非常に高く評価され、東京オリンピックをはじめ、FIFA、UEFA、その他のスポーツ連盟がそのモデルを参考にして大会を開催した。 FIAから幾度となくアプローチを受けた結果、ニールセンは最終的に2023年初頭に同連盟のスポーティングディレクターとして加入した。しかし、その運営方法に満足できず、同年末には退職した。 その後、彼はF1のフリーランス・コンサルタントとして在宅勤務をしながら、ロジスティクス、商業契約、サーキット関連業務などを支援していたが、ついにブリアトーレの提案を受け入れ、ウイリアムズを去ってから8年以上の時を経て、再びF1チームの一員として現場への復帰を果たすこととなった。 [オートスポーツweb 2025年07月23日]