【戦後80年】特集 「陶器製兵器 信楽焼」

信楽焼は、愛らしいたぬきの置物をはじめ、壺や茶器などのやきもので知られる日本六古窯の一つです。陶器まつりや作家市には、多くの観光客でにぎわいます。しかし、太平洋戦争末期、信楽焼は「兵器」になった歴史がありました。 戦争中、信楽も空襲の恐怖と不安にさらされていました。 甲賀市信楽町に住む冨増純一さんは「日本の小さい飛行機が、プロペラの単発機が飛んできて、B29から撃たれて燃えて落ちていったのを見ていた。それで怖いなと思った。またサイレン鳴ったら防空壕に入れとなって、みんなそこに慌てて行って、怖いなあという思いしかない」と振り返ります。 鉄製品や寺の鐘などの供出が求められる物資欠乏の中で、信楽焼は手榴弾や地雷になりました。 冨増さんは「お父さんが作っていたのは記憶にあるので、思い出して描いたよ」と、記憶にある作り方を絵に描いて教えてくれました。 「これ二つあって、最初に上を作ったら置いておく。次に二つ目を作って、合わせてしばらく放置しておく。これを返して、継ぎ目を削って、きれいになでるという成形をした。100個ほどあった。順番に作って、また作ってと」。 父親は、戦後も何を作っているのか、話さなかったと言います。 「手榴弾とか何とか、全然言わなかった。秘密だったのかもしれないけど。作っているのは見たけど。兵器だとは全然考えなくこれ何するものだろうと見ていた。あとから思ったら、あれ手榴弾だったと分かった」。 冨増さんは、兵器を製造した歴史を伝えていかなければならないと力を込めます。 「(兵器を)作っていたとか絶対に言うなと。そんなことを言うと調べられて逮捕されるかもしれない。作ったと言うなと口封じで、作っていたことを隠してしまえと。それで、なかなか人は言わない。こんなものを作って戦争することはあかん。そやけど、あったことは、事実は伝えないといけない。こういうことがあったと言うことは伝えないとあかん」。 県の信楽窯業技術試験場には、信楽焼の手榴弾と地雷のほか、化学式などが記された土の成分表や、地雷の仕様書のコピーが残されています。 高畑宏亮場長は「土を練る機械やろくろなどの金属が全部もう政府に取られてしまう。産業がなくなるという危機があった。信楽は大きいものも得意としていて、何か戦争の武器になるようなものを作れないかと。一つは地雷で、その後に手榴弾も作られていった」と話しました。 金属ではないので、地雷として探知しにくい特性も期待されていたということです。試験場によりますと、軍の注文を受け、産地を挙げて地雷や手榴弾が製造されていました。 高畑場長は「注文もすごい量があったと聞いている。やはり産地ぐるみで、みんなが取りかかっていたと思う。学生さん、中学生だったり、当時十何歳くらいの人も、釉薬かけるのを手伝ったことがあるという話も聞く。かなりの人が携わっていたと思う」と説明します。 ただ、陶器製兵器の製造に関する資料は、ほとんど残っていないと言います。 「戦争が終わる時に資料がなくなっている。残っていると、アメリカ軍が来て見られた時に『なんだ、これは?』となることを恐れていたと思う。そういう資料が全く残っていない。戦時中の業務文書や報告書が、うちの分もない。当時の記録は、厳重に処分されたと思う。ある人の話では、地雷があって『これは何?』と言われた時に、上にコルクの蓋を置いて『これは湯たんぽです』と言ったという話もある。地雷でなく、湯たんぽだと言ってアメリカ兵から逃れたという話も残っている」。 やきものの歴史に詳しい立命館大学の木立雅朗教授は、信楽は全国的にみても陶器製兵器の有力な産地だったと指摘します。 木立教授は「信楽焼が戦時中に生き残りをかけて、軍部にかなり働きかけをして売り込みします。その中で陶器製地雷ができてくるので、陶器製地雷全体の中で、ほとんど信楽焼。手記も残っているし、実際の出土例からも間違いないようです」。 人を殺傷することを目的に製造された陶器製兵器。実際に、激戦地だった沖縄や硫黄島で出土しているということです。 木立教授は「作ったけど使われなかった、終戦を迎えたとよく聞くが、実際には沖縄にも出ますし、硫黄島にも出ますし、各地の軍事基地から出ますので、間違いなく使われている。沖縄では聞き取りで、陶器製手榴弾を渡されて、それで自決できなかったという話があるので、間違いなく使われている。『手榴弾を渡されました。それはマッチ式で爆発させるものでした』と書かれているものがあって、それは陶器製手榴弾しかない。金属手榴弾は投げて信管が反応するパターンなのでマッチですらない。これはマッチでするので、明らかにマッチ式の陶器製手榴弾で自決を強要されたことが分かる事例がある」と話します。 信楽焼の陶器製兵器には、ある特徴がありました。 「『信』という統制番号を押す。信これは185番となっていて会社の名も書いてある。これが明確にあるので信楽製だと。この信の判子で明確に分かります」。 (記者)沖縄で出土した陶器製手榴弾に「信」の文字が確認されているのか? 「はい。あります。残念ですが。作っていて、しかも実戦で使われていた」。 木立教授は、こうした「負の遺産」について、私たちがどう向き合っていくべきなのか、次のように話しました。 「戦後80年なんて言っていられるのは今のうちだけで、戦前何年とカウントダウンが始まっている可能性がある。こういった負の遺産をもう一度かみしめていって、これを活用しながら次の時代をどう考えていくかの材料にできたら。どう生きていくか、考える材料にはなると思う」。 自らの考える「信楽焼」を追求し、その具現化に挑戦する陶芸家・谷穹さん。信楽焼の伝統と、作者が込めた思いに触れてもらおうと資料館を運営しています。そこには信楽焼の手榴弾や地雷も展示されています。 谷さんは「本来やきものは、手の形を残したり、意識を残したり時間を超えて保存したりする目的のために作られる。これは壊れることを前提に作るという真逆のことが起こっている。産業ではあるが、本来のやきものに込められる思いではない」と話しました。 谷さんは今後も展示を続けていくとし、次のように語りました。 「そこまでしなきゃいけない状況だったんだということは、ここに保存されている。そういうことを受け取ることはできる。個人がこれを見せて、戦争を止められるわけではない。でも、本当にここから受け取ることしかできないが、ここに保存されている事実は、事実としてあったんだなと。うちも息子がいるが、息子がこれを作ることを想像するとぞっとする。こういう状況にさせたくないと思う」。 (報道部 福本雅俊)

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