「発禁本」1200冊所蔵の図書館 今に伝える“自由が制限された時代”

茶色に変色した本の表紙をめくると、「禁閲覧」「廃除」の朱印が目に飛び込む。東京タワーのそばにたたずむ東京都港区の三康図書館。戦前・戦中、図書館での閲覧を禁じる「発禁本」とされた書籍約1200冊が所狭しと並ぶ。古びた本の“刻印”は、自由に本を読むことが制限された時代を今に伝えている。これらの書籍が今に残った背景には、気骨ある図書館員らの存在があった。 「どの本も全て手に取って読むことができます」。書庫を案内してくれた司書の新屋朝貴さん(35)はそう教えてくれた。三康図書館は明治期に出版社が設立した旧大橋図書館(1953年閉館)の蔵書約18万冊を引き継ぎ、64年に開館。仏教研究をする三康図書館の付属図書館でもある。現在は一般に開放された図書館として運営されている。 ◇戦前に国が検閲 検閲の歴史に詳しい元中京大教授の浅岡邦雄さん(近代出版史)によると、戦前の日本では1893(明治26)年制定の出版法などに基づき、国が検閲を行った。内容が不適切と判断された書籍は発売や頒布が禁じられた。特に明治天皇暗殺を企てたとして、社会主義者の幸徳秋水らが逮捕された「大逆事件」(1910年)を契機に取り締まりが強化された。浅岡さんは三康図書館に残された本について「戦争中に焼けてもおかしくなかった。これだけの本が残されているのは貴重だ」と話す。 発禁本の取り締まりは図書館の蔵書も対象で、例えば県立長野図書館では25年から44年の間に少なくとも約400冊が差し押さえ対象とされた記録が残っている。複数の大学図書館でも、戦争の機運が高まった40年ごろから警察が見回りに来ていたという。 ◇憲兵の見回りに「抵抗」 大橋図書館でも当時の業務日誌から憲兵の見回りがあったことが分かっている。経緯は不明だが、40年5月に778冊が、43年9月に394冊が閲覧禁止図書を意味する「憲秩紊本(けんちつびんぼん)」に分類された。多くは社会主義思想を扱った本だが、「正岡子規研究」やヘミングウェイの「武器よさらば」なども含まれていた。それらの本や目録に「廃除」や「閲覧禁止」などの朱印が押された。 「廃除」と押された本は、没収や廃棄の可能性もあったが、同図書館に残された理由の一つに当時の図書館員の「抵抗」があったことがうかがわれる。 文筆家・神崎清(1904~1979)は、雑誌「図書館評論」(1968年7号)に寄せた随筆「竹内さんの笑い声」で、「戦時中、大橋図書館に憲兵がやってきて、発禁本の提出を強要したとき、竹内さんは、なんとかかんとかあしらって憲兵を追い返し、あつい金庫のような扉のある書庫のなかへ一歩も入れさせなかった、という」と記した。 「竹内さん」とは当時図書館主事だった竹内善作(1885~1950)で、幸徳秋水の右腕とされた人だ。東京市立図書館に勤務後、28年に大橋図書館の主事となり、児童書や雑誌の充実に力を入れ、新しい図書分類方法を生み出した。神崎は寄稿で竹内を「権力者の不当な支配に抵抗する精神と技術を身につけているのでなければ、とても凡人にできる芸当ではない」と評している。 新屋さんは竹内を含め、図書館として組織的に本を隠していたとみている。戦中に発刊された「図書館雑誌」(1943年7号)には、当時の館長、坪谷善四郎(1862~1949)が検閲へ苦言を残している。「私立図書館の蔵書は、(中略)自発的に警察へ差出す様にせよといふことが如何なものであらうか、尚ほ其上に、差出した上は焼棄せらるゝであらうなどゝ聞くと、後世に残すべき文献が消滅し、取返しがつかぬことになる」。 新屋さんは、「最終手段として本を隠したのでしょう。その間は利用者も手に取れなかったが、最悪の事態は免れた」と語り、「読みたい本が手に取れるのが当たり前じゃない時代があったことを感じられるかは、実物があってこそ。ぜひ見に来てほしい」と呼びかける。【原奈摘】

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