28歳で「爆弾犯の妹」になった女性の数奇な運命 300人超被害の三菱重工爆破事件「その後」

今から半世紀余り前の1974年8月30日、東京・丸の内の三菱重工本社ビルで爆発があり、8人が死亡し300人以上が重軽傷を負った。事件を起こしたのは過激派「東アジア反日武装戦線」。リーダーだった大道寺将司元死刑囚を2017年に獄死するまで家族として支えたのは、京都市右京区在住の女性だった。 保守的な一般家庭に育った女性は、なぜ28歳で“爆弾犯の妹”になったのか―。 大道寺元死刑囚の母幸子さん(04年に死去)と1986年に養子縁組し、妹になったのは、ちはるさん(67)。当時、京都市内の1部上場企業に勤務する会社員だった。 小・中学校時代に大学紛争やあさま山荘事件をテレビで見て、学生運動になぜか関心を持った。 だが両親は、「無事に嫁に行かせるのが親の務め」という信条を持ち、門限や友人関係に厳しかった。子どもの頃から「親に忖度(そんたく)して自分を自己規制するくせがついていた」。学生運動への関心は言葉に出ず、現実的にも、高校を卒業する頃には学生運動の時代は終わっていた。 社会人になり自分で稼ぐようになると、好奇心を抑えきれず、サブカル誌「プレイガイドジャーナル」を手に、女性だけで運営するバーや自主上映会に通った。そこで、全共闘世代の人と出会い、自立する姿に憧れた。25歳の時、親の反対を押し切って、「夜逃げするように」1人暮らしを始めた。 出入りしていた知人の家には、三菱重工爆破事件をはじめ一連の企業爆破事件で逮捕されたメンバーを支援する団体の機関誌があった。手に取ると、大道寺元死刑囚の書簡集「明けの星を見上げて」が出版されると書いてあり、河原町三条の「駸々堂」に買いに行った。 事件についてあまり知識はなかったが、世間が「爆弾魔」と騒いでいたことは何となく覚えていた。 書簡には、東京拘置所の房で野良ネコや小鳥と触れ合う喜びがつづられ、「凶悪な人とは思えない」と興味が湧いた。まだ死刑確定前で、面会できるタイミングだった。 〈あなたの本を読みました。夏休みに面会に行ってもいいですか〉 そう手紙を送ると、承諾の返信が来た。「若さもあり、親元を離れて自由になり、何でも知りたいという気持ちで一杯だった」 アクリル板越しの元死刑囚は涼しげな目元で静かな空気をまとっていた。「どうも」。そんな言葉をかけられたような気がするがよく覚えていない。

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