初監督作品は逃亡犯の15年間を描く「私の見た世界」 女優石田えりに聞いた映画への思い

「遠雷」や「釣りバカ日誌」などで知られる女優の石田えり(64)が初監督した映画「私の見た世界」が、7月26日に公開される。82年に「松山ホステス殺人事件」を起こし、15年間の逃亡生活を送った福田和子(05年に57歳で獄死)の半生を描く作品。石田監督に聞いた。 ◇ ◇ ◇ -福田和子は石田さんの12歳上で同じ子(ね)年。事件を起こしたのが石田さんが一躍脚光を浴びた「遠雷」の翌年。逮捕は日韓の架け橋になった女性を熱演された「愛の黙示録」が公開された97年。そして獄死は40代半ばにしてストリッパーを演じた「ジーナ・K」の05年です。ご自身の女優人生の転機が不思議に福田の事件の節目に重なっています 石田 ほうほう。へぇ、そうなんだ。確かに事件のことはテレビでよく見た記憶はありますけど、私のキャリアと重ねて考えたことはなかったなぁ。どこかで意識していたのかなぁ。きっとそういうことって後から点と線がつながってくるのかもしれないですね。 -なぜ監督第1作が「福田和子」だったんですか 石田 きっかけは20年くらい前になりますけど、犯罪者の本を読んでいて、その中に福田さんがいたんです。その時、ポッと逃げる女性のイメージが浮かんだんですね。で、しばらくたって夢を見たんです。逃げ続ける、追われる、いったいどうしたら解放されるのだろうと、ずっと考えている。生きていればどんな人でも、できれば逃げ通したいことってあるでしょう。そんなこと映画になるかってバカにされそうで人に言えなかったんですけど、偶然テレビで見た詩人の谷川俊太郎さんがまったく同じ夢の話をされていた。で、福田和子さんを描くことでそんな私のイメージが伝えられるんじゃないかと。 -石田さん自身が福田を演じられていて、基本一人称で福田の目を通した光景が描かれています。福田へのシンパシーを強く感じました 石田 撮っているときはそんな風に、同調するほど思いを重ねることはなかったですけど、少なくとも世間がレッテルを貼った極悪人のイメージは湧かなかったんですね。確かに人を殺しているわけですから、そこはどうしようもないわけですけど、妻であり母親でもあった1人の人間ですからね。 福田は愛媛県松山市生まれ。幼くして両親が離婚し、引き取った母親は同県川之江市(現・四国中央市)の自宅を売春宿にして生計を立てた。高校時代、交際していた同級生の事故死で自暴自棄になり、17歳の時に同居していた男性と国税局長の家に強盗に入った罪で服役。その際に看守と受刑者が共謀して女性受刑者に性的暴行した松山刑務所事件が起き、被害者となった。出所後、キャバレーで働いていた時に同僚ホステスの首を絞めて殺害。以来、美容整形を繰り返すなどしながら15年間の逃亡生活を続けた。当時のメディアは「7つの顔を持つ女」と呼んだ。 -初監督として撮影中のご苦労は? 石田 まずはスタッフをどう動かすか、でしたね。私は、若くてこれから映画監督やるっていう人じゃないじゃないですか。もう、年取って俳優業がダメだから(笑い)みたいな。スタッフからすると、イメージが良くなくてマイナスからスタートなんですよ。向こうは私より全然若いですけど、作り手側としてはもう20年とか、ベテランなわけです。こうしたいと思っても「それはちょっと無理ですね」と言われちゃうと、そういうものなのか、と。初めての監督業はあきらめの連続だったんですよ。 -ホステス、売春宿、居酒屋…職を転々とし、搾取され、やがて追っ手の影を察知して逃げる。映像からは逃亡者の荒い息づかいが伝わってきました 石田 彼女の目線、一人称で描こうと固まったのは実は途中からなんです。その方が伝わりやすいんじゃないかと。で、同時に「私の見た世界」というタイトルが浮かんだんです。撮り始めてから、いろんなものが見えてきた感じです。 -撮影の進行に従って、スタッフとの息も合ってきたのではないですか 石田 いやあ(笑い)最後まで距離感があったんじゃいかな。一生懸命やってくれているのはとってもよく伝わってきたんですけど…。現場でのやりとりって俳優として見ていたのとは、全然違いましたね。 -監督、脚本に加え、編集も担当されました 石田 編集していると、改めて全部見えるんです、いろいろまずいところが。余裕がないから、撮っているときはいろいろ見えなかったものが。次につながるとすれば、反省点が多かったことが収穫ですかね(笑い)。協力してくれた方もたくさんいたわけだから、とにかく完成させなきゃ申し訳ない。そんな気持ちでゴールしました。 -完成後は? 石田 いやあ、見てもらった関係者の反応が鈍い。ピンとこないって(笑い)。大丈夫なんだろうか、と。それから1年間は映画祭に応募しまくったんですけど、ダメ、ダメが続いて全滅だった。エントリーできなかったんです。で、最後の最後になってロッテルダム映画祭とベルリン映画祭が、むしろ「参加してください」と招かれる形になったんですよ。 -ロッテルダムは53回を数える歴史ある映画祭だし、ベルリンは世界三大映画祭じゃないですか。 石田 何かの勘違いと思ったんですけど、一つじゃなく二つあったので、ホントに箸にも棒にもかからないわけではないんだと、ホッとできたんです。で、ようやく劇場公開も決まりました。 -そもそも映画監督をやろうと思ったきっかけは 石田 30年前になりますけど、女優業が一段落というのかな、そんな時期に差しかかって(所属)事務所が「もうオバサンになったのだから1年くらい休んでこい」と休暇をくれたんですね。それで南の島に行ったときに、それはそれはすごい体験をしたんですよ。誰でも人生に1度はあるかもしれないけど、それはそれはすごい体験だった。これは映画になると思った。でも、それはあまりにも大きくて、手に余るところがあった。で、ずいぶん時間がかかったんですけど、まずはできそうなものから、と今回の映画に至ったわけです。で、次は本来の南の島の話を何とか実現したいと思っているんですよ。 【相原斎】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「映画な生活」) ◆石田(いしだ)えり 1960年(昭35)11月9日、熊本県生まれ。中学3年の時に指揮者チャーリー石黒のオーディションに合格。歌番組のアシスタントなどを経て「刑事犬カール」(78年、TBS系)で女優デビュー。「ウルトラマン80」などの後、「遠雷」でブレーク。93年にはヘルムート・ニュートン撮影のヘアヌード写真集「罪」を発表。21年には「G・Iジョー:漆黒のスネークアイズ」でハリウッドデビューを果たした。

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