高い壁に囲まれたパレスチナの難民キャンプでは、空だけが自由に広がっている。住民たちは移動を厳しく制限され、先の見えない閉塞(へいそく)感に日々、心をすり減らしている。 イスラエルによる軍事侵攻は「ジェノサイド(集団虐殺)」と非難を浴びている。だが、その不条理はガザ地区にとどまらない。東エルサレムやヨルダン川西岸地区でも「集団的懲罰」と呼ぶべき理不尽が暮らしを覆っている。 ◇医師たちの苦闘 その現実を証言するためパレスチナ人のサリーム・アナティ医師(65)が来日し、9月中旬に毎日新聞のインタビューに応じた。 アナティ医師は東エルサレムのシュファット難民キャンプで生まれ育ち、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の診療所で所長を務めた。現在は慈善協会の理事長として活動している。 シュファット難民キャンプは高さは8~12メートルの分離壁に囲まれている。地元の人はかつての南アフリカの人種隔離政策にちなんで「アパルトヘイトウオール」と呼ぶ。2年前のイスラム組織ハマスによる越境攻撃を契機に、イスラエルは東エルサレムや西岸各地で検問所や金属製ゲートを急速に増設した。 医師や看護師の多くは、西岸から東エルサレムへ通勤しているが、出入りにはイスラエル当局の特別な許可が必要となる。 検問所で長時間待たされたり、通過を拒否されたりすることも少なくない。診療所はスタッフがそろわず何度も閉鎖に追い込まれ、そのたびに地域の医療が途絶えてきた。 ◇命が奪われる現実 ある日、心臓発作を起こした男性の家族が救急車を呼んだが、検問で止められ、難民キャンプにたどり着けなかった。男性は7人の子どもを残し、亡くなった。 「これは特別な例ではありません。移動の制限により、多くの命が奪われてきたのです」とアナティ医師は訴える。 西岸でも同じ。町や村の入り口にはゲートが設置され、銃を構えた兵士が監視している。その数はハマス攻撃以降、日を追って増え、住民の移動を封じる仕組みが強まっている。 「女性や子どもだろうと、自由に移動することはできません。いくら理不尽でも、『治安維持』を理由に正当化されてしまうのです」。パレスチナの住民全体を敵視するのは、明らかな「集団的懲罰」だと指摘する。 抑圧は生活の隅々にまで及び、あらゆる行動が監視されている。 ◇SNSも安全ではない たとえ交流サイト(SNS)であっても、イスラエル軍や警察を批判すれば逮捕される。 検問では身分証を提示し、衣服や所持品を調べられる。それだけでは終わらない。携帯電話を取り上げられ、フェイスブックの投稿や保存した写真までくまなくチェックされる。 「批判的な投稿が見つかれば携帯電話を破壊され、有罪になれば1年間投獄されます。パレスチナの旗を掲げただけでも、6カ月の刑です」とアナティ医師は話す。 ◇子どもたちへの影響 教育への影響も深刻だ。UNRWAの活動は制限され、シュファット難民キャンプの学校は閉鎖を余儀なくされた。その結果、550人以上の小中学生が学びの場を失い、路上でたむろするようになった。たばこを吸ったり、万引きを繰り返したりする子もいるという。 「6~8歳の子がたばこを吸っているのを見かけます。理由を尋ねると、『怒りを紛らわすため』だと言うのです。そのうち喫煙が習慣化し、13~16歳くらいになるとヘロインやコカインに手を出すこともあります」 将来に希望を持てず、精神的に不安定になった子どもたちは、はけ口を求めて違法行為に走る。壁に押しつぶされるような日常の中で、教育や生活の制約が悪循環となり、子どもたちの未来をむしばんでいる。 ◇日本の人々に訴えたいこと アナティ医師は今回、パレスチナ難民への医療支援を続けてきたNGO「北海道パレスチナ医療奉仕団」の招きで来日。北海道から沖縄まで、全国各地で講演を行っている。 「私たちは人間です。動物ではありません。求めているのは平和と正義です。どうか、私たちが直面している現実を知ってください」 そう語りながら、ガザの空爆で家族全員を失い、自らも手足を失った7歳の少女がベッドに横たわる動画を記者に見せた。 最後に、力を込めてこう訴えた。 「こんなことが許されていいはずがありません。これはジェノサイドです。国際社会は今こそ行動を起こしてほしいのです」【小泉大士】