今年上半期最大の話題作となったNetflix配信映画『新幹線大爆破』(樋口真嗣監督)。この作品が50年前に作られた東映映画が原作であることはよく知られている。オリジナル版は今も高い人気をほこり、閉館に伴う“さよなら 丸の内TOEI”のイベントでは、公開日となる1975年7月5日から、ちょうど50年目となる2025年7月5日に、Netflix版を監督した樋口真嗣監督とフリーアナウンサー笠井信輔が参加する特別上映イベントが行われた。 新幹線に仕掛けられた爆弾は、時速80キロを下回ると爆発する。高倉健が鬱屈した犯人グループの中心人物を演じ、宇津井健が演じた運転指令長は、冷静沈着に運転士 (千葉真一) へ指示を出す。同時進行で犯人を追いつめる警察の捜査と、犯人グループの過去が重なり合う多重構造の構成は、ドラマとスペクタクルとパニックを見事に一体化し、この時期に数多く製作されたパニック映画のなかでも突出した1本となった。 50年前の東映で、なぜこのような画期的な映画が誕生したのだろうか。『新幹線大爆破ネガスキャンリマスターBlu-ray』の発売に際して、その製作過程を追いかけてみたい。 ・・・ 東映1974 『新幹線大爆破』(1975)の企画がスタートしたのは1974年だった。まず、この時期の東映が、どのような状況にあったかを見てみよう。 前年、東映は大きな転換期を迎えていた。10年にわたって観客の支持を集めてきた〈任侠映画路線〉に陰りが見え始めており、新たな路線を求める中で、飯干晃一が「週刊サンケイ」に連載を始めた広島やくざ抗争史の映画化が持ち上がる。様式美に満ちた任侠映画の真逆を行く、欲望と裏切りを実録タッチで描いた『仁義なき戦い』の登場である。1973年1月13日に公開されると、たちまち大ヒットとなり、直ちに続編の製作が決定する。同年中に2作目『仁義なき戦い 広島死闘篇』(1973)、3作目『仁義なき戦い 代理戦争』(1973)が公開され、観客動員数は作を追うごとに増加し、学生、女性にも観客層が広がっていった。主演の菅原文太は、これで東映トップ・スターに登りつめた。 『仁義なき戦い』シリーズの大ヒットによって、任侠映画に取って代わって実録映画が次々に企画されるようになり『やくざと抗争 実録安藤組』(1973)、『実録 私設銀座警察』(1973)などが矢継ぎ早に公開されたが、最も強烈なのが、高倉健主演の『山口組三代目』(1973)だった。『仁義なき戦い』では関係者が健在なため、名前を変えるなどの配慮がなされていたが、こちらは実在の組の名前をタイトルに冠し、組長、幹部らの名前も実名のままという究極の実録映画となった。もっとも、内容は旧来の任侠映画の流れを汲んだものになっていたが、 『山口組三代目』は『仁義なき戦い』シリーズを上回る大ヒットとなった。 明けて1974年――4作目となる『仁義なき戦い 頂上作戦』(1974)が公開された。当初はここで打ち止めの予定が、人気が衰える気配はなく、シリーズは『仁義なき戦い 完結篇』(1974)まで延長されることになった。 一方、『山口組三代目』の続編は、警察・マスコミからの批判が大きく、山口組の名は外されて『三代目襲名』(1974)の題で公開された。 1974年10月12日付の「週刊映画ニュース」によれば、この年の上期における東映映画の配給収入上位5本は、①『仁義なき戦い 完結篇』(5億円)、②『三代目襲名』(4億8千万円)、③『山口組外伝 九州進行作戦』(4億2千万)、④『殺人拳2』(3億円)、④『直撃! 地獄拳』(3億円)となっており(括弧はその時点での配給収入額)、実録やくざ映画と空手映画という東映でしか作れない独自カラーが数字にも色濃く反映されていた。 問題は、①~③が上期で姿を消すことにあった。『仁義なき戦い』シリーズは完結し、山口組シリーズも、これ以上の続行は不可能と判断され、1974年末には正月映画に予定されていた3作目となる『山口組三代目 激突篇』の製作が中止になってしまう。 東映にとって、新たな路線開拓は喫緊の課題となっていた。もちろん、すでに新たな企画は複数動いており、『仁義なき戦い』シリーズの深作欣二監督と、脚本の笠原和夫コンビによる実録映画の変奏曲とも言うべき『実録共産党』という強力な変化球も準備が進んでいた(最終的に未映画化)。 そうした中で、半期に1本程度の製作を目安に、社会的な事件を題材にした企画が持ち上がる。プロ野球黒い霧事件、連続企業爆破事件、別府3億円保険金殺人事件など、同時代の事件を取り上げる野心的な企画だった。 そこから具体化したのが、1975年12月10日に公訴時効が迫る三億円事件の映画化企画『真説・三億円剥奪事件』(公開題は『実録三億円事件 時効成立』)。そしてもう1本、同時代のパニック映画ブームも念頭に、当時頻発していた新幹線への爆破予告を踏まえた企画が立ち上がる。それが『新幹線爆破魔を追え!』だった。 『新幹線爆破魔を追え!』始動 東映へ1962年に入社し、東京撮影所製作部へ配属された坂上順は、1974年当時は32歳。プロデューサーとしては、高倉健主演の『ゴルゴ13』(1973)を前年に担当したばかりで駆け出しの存在だった。 東映社長の岡田茂は、アメリカのパニック映画ブームを前にして、うちでも何か出来ないかとプロデューサーたちに発破をかけていた。その中で出てきたのが、1974年末に全米公開が決定していたパニック映画大作『タワーリング・インフェルノ』(1974)に当て込んだ、千葉真一主演の『燃える三十六階』。ビル火災に立ち向かう消防士を主人公にしたアクション活劇だが、この企画は進展しなかった。 坂上は、日本独自の設定として新幹線を思いつく。新幹線でどうパニックを起こすか。そこで参考にしたのが、アメリカのTV映画『夜空の大空港』(1966)だった。旅客機に爆弾が仕掛けられた。それも高度1万フィート以下のある高度まで下がると自動的に爆発するという。燃料が尽きかける中で、機内の爆弾を見つけ出すことはできるか――この秀逸な設定は、高度×時間という縦軸と横軸を組み合わせたところにある。飛行機が高度を下げることを禁じられた上に、ある時間まで来ると燃料が尽きるという2つのサスペンスが巧みに組み合わされ、極上のサスペンスとなった。 『夜空の大空港』は、1972年2月20日に「日曜洋画劇場」(テレビ朝日系)で初放送され、視聴率は20.7%を記録した。好評だったせいか、1974年8月4日にも同枠で再放送(視聴率は15.1%)されている。 坂上は、この設定を新幹線に応用した。つまり、新幹線が一定の速度以下になると、仕掛けられた爆弾が作動するというというわけだ。坂上は「〈高度〉を〈速度〉に変えただけのことなんです。いわばパクリ。僕のオリジナルでも何でもないんですよ」(「関根忠郎の映画惹句術」)と謙遜するが、〈高度〉を〈速度〉に変えることがコペルニクス的転回点となり、和製パニックアクション映画の傑作を生む起点となった。本作に原案としてクレジットされている加藤阿礼は、坂上のペンネームである。 このとき付けられた題名は、『新幹線爆破魔を追え!』。 「映画時報」(74年10月号)で、東映企画製作部長の登石雋一が、本作の企画が進んでいることに触れ、「新幹線は日本にだけしかございませんし、ちょうど博多までの開通も控えておりますので、いろいろな意味でそういうタイムリーな問題もあると思います」と語るように、1975年3月には東京―博多間の新幹線が開業することになっており、それに合わせて公開すれば、話題になるに違いないという目論見もあった。 1974年5月、企画にゴーサインが出た。佐藤純彌のもとへ監督オファーが来たのは、監督作『ルパング島の奇跡 陸軍中野学校』(1974)が完成して間もない9月のことだった。さっそく鉄道関連の資料を読み漁り、新幹線のメカニズム、システムを研究した佐藤は、爆弾が作動する速度を、時速80キロ以下と設定した。その理由をこう語っている。 「調べてみると、新幹線に故障があれば、とにかく全部止めて調べるというのが大原則なんですね。だから逆にプロデューサーと、止まれないとしたらどうだろうって話になりまして、それから分岐点を通過するときの制限速度が70キロなので、80キロという設定にしたんです」(「映画情報」75年8月号) 11月に脚本家の小野竜之助へ脚本執筆の発注があったときには、坂上と佐藤による原稿用紙20枚ほどの梗概が出来上がっており、すでにこうした初期設定が盛り込まれていた。そこから約1か月かけて、佐藤と小野が共同で脚本を書き上げていった。 初稿脚本では犯人側の描写は少なく、新幹線車内のパニック描写と、総合指令所で指令長が犯人とやり取りしながら、次々に襲いかかってくる危機を回避しようとする描写、そして警察の捜査が中心になっていた。爆発物をどのようにして除去するか、トリッキーな手段がいくつも考案されていた。 また、新幹線の乗客に一家心中で生き残った男、大阪へ遠征に向かう長嶋茂雄以下の巨人ナイン、名古屋場所へ向かう横綱・北の湖、西城秀樹なども初期の時点では書き込まれていた。完成した映画と違って、乗客同士が協力しあう設定もあり、妊婦が車内で無事に出産するくだりも存在した。なお、速度を緩めることが出来なくなった新幹線の向かう先に、故障車が立ち塞がる設定は完成した映画にも残されたが、この時点では以降も停電をはじめ、次々に難関が押し寄せることになっていた。この脚本をもとに、キャスティングも開始されることになった。 高倉健と千葉真一 1975年1月22日の「報知新聞」は、〈東映、新幹線舞台に恐怖映画〉と、早くも『新幹線爆破魔を追え!』の製作を報じている。記事では配役について、「犯人グループの主役に菅原文太、共演陣にも千葉真一、松方弘樹、高橋英樹のほか演劇、テレビなどの人気スターによるオールスターキャストを組み、二月下旬からクランクイン、三か月をかけて撮影ののち、この夏に公開の予定」と記されている。このとき、報じられたキャストで実際に映画へ出演したのは、千葉のみだった。 プロデューサーの坂上順は最初から、高倉健を意中の人としていたが、会社としては、製作費が膨張することが予想された本作に、ギャラが高く、興行力が落ち始めた高倉よりも、ギャラがその半額程度で済み、人気沸騰中の菅原を起用した方が得策という判断があったようだ。 しかし、犯人役の菅原は病気療養(実際は東映との軋轢によるボイコットという見方もある。『資金源強奪』など、この時期は文太主演企画が相次いで変更になっていた)を理由に出演を固辞。以降、配役は二転三転することになる。 完成した映画では新幹線の運転士役を演じた千葉真一は、犯人役としてオファーを受けていたと明かしている。おそらく、菅原の出演が無くなり、格上げの形で犯人役が回ってきたのだろう。 「あの健さんの役をね、俺にやらしてくれるって言ってたんだよ。東映は。『新幹線』はお前の作品だって言ってたんだよねえ。ま、いいけどさ。(略)健さんがやるっていうんで、俺はね、納得した。あっ、健さんが、俺の尊敬する人がやるんだと。(略)僕も一生懸命にね、健さんだからこそ、やらしてもらった」(「東映映画情報・無頼」第3号) 高倉の出演は、坂上の粘りが功を奏した。深夜、社長の岡田茂に直訴して、高倉へのオファーを熱望したのだ。その情熱に、岡田は出演交渉を許諾する。ただし、条件をつけた。高倉の出演料を半分まで抑えることが出来るなら交渉しても構わないというのだ。 これは厳しい条件だった。スターのギャラは人気のバロメーターであり、低予算映画でも他の条件は譲歩しても、ギャラだけは落とさないという俳優は多い。これでは高倉に落ち目と直言するようなものである。 それでも、坂上は〈健さんと一緒にやりたい〉という一念で交渉に向かった。 もちろん、それで高倉が直ぐに了承してくれるわけではない。脚本を読み、気に入ってくれなければ出演は叶わない。 高倉は脚本の面白さに舌を巻いた。だが、ギャラの半額交渉に対しては、「機関車はな、石炭がなけりゃ走れないんだぞ」という言い回しで不満を表明したという。やがて、その条件を呑む代わり、興行収益から20%の成功報酬を求めた。1976年に東映を退社することになる高倉は、その後に他社で出演した『八甲田山』(1977)、『幸福の黄色いハンカチ』(1977)でも成功報酬契約を結んでおり、本作はそのための試金石とも言えた。 それにしても、20%という数字はかなり大きいが、東映はあっさりと了承し、高倉の出演が決定する。後に坂上は「東映スピードアクション浪漫アルバム」(徳間書店)の取材に応えて、このとき高倉から「パーセンテージなんていうのは会社が全部数字を握ってるんだから、“経費引いたらこれです”って言われたら、俺たちは何も言えないんだよ。だけど、20%取ったってことが俺にとっては石炭になるんだ」と言われたと証言している。 黒澤明が黒澤プロダクションを作って東宝と提携していた頃、どれだけ大ヒットを放とうとも、経費や前借り分を引いた後では、さしたる金額を手に出来たわけではないと愚痴ることがあったが、高倉はそうした仕組みを理解したうえで、成功報酬契約を東映と行った実績を残そうとしたのだろう。 1976年に行われた「東映映画情報・無頼」(第3号)のインタビューで、千葉真一は高倉についてこう語っている。 「やる時はあの人が一番早いんじゃないですか。大きなものをやる時にはね。とにかく世界に目を向けて歩けって、十何年前に俺に言ったのは高倉健なんですよ。僕は健さんて、そいういう感覚が好きでね。(略)今も健さんとちょくちょく会っていろんな話してますけども、お前の今のやり方は間違ってないと思う。ま、そういうアドバイスしてもらってんです。ただ、やっぱり俳優は安い金で動いちゃあいけないぞ。もう、いいと思った時はちゃんとしたもので、それからくだらない作品で仕事はするな。それだけなんですよ」 この時点では高倉の次なる動き――『八甲田山』『幸福の黄色いハンカチ』への出演は明らかになっていなかったが、東映から離れてフリーとなった高倉は、一回り大きな存在になっていった。千葉に助言するかたちで、高倉は自身の置かれた状況を正確に分析していたことがうかがえる。その意味で、本作でギャラ半額の見返りとして成功報酬を約束させたことは、東映を離れた後の出演交渉の席で、それが実績となることを見越していたのだろう。本作が後に世界へ向けて走り出すことも含め、高倉の作品選択眼と先見の明は際立つものがあったと言えよう。 東映vs国鉄 高倉健の主演が決まったことで、宇津井健、千葉真一、山本圭をはじめとするキャスティングが続々と決まっていった。東映映画では珍しい宇津井、山本に加えて竜雷太、藤田弓子といった顔ぶれについて監督の佐藤純彌は、「おもしろいね。新しい俳優とやると、俳優同士で新しい振幅というか共鳴があってね」(「東映映画情報・無頼」第2号)と、配役の妙を語っている。 さらに、同じ誌面で佐藤は「(引用者注:普段は)脚本が出来てからクランク・インまでの間がないからいろんな俳優を使えないという、自分の手持ちの俳優であいている者を次・次という具合になってしまって、どうしても固定化してしまうような所がある」と従来の東映映画における問題点を挙げているが、では、なぜ『新幹線爆破魔を追え!』では、こうしたキャスティングが可能になったのか。それは、脚本の完成から撮影に入るまで時間が空いたせいだった。 1975年1月22日の「報知新聞」で、製作開始にあたって東映社長の岡田茂はこう語っている。 「ものがものだけに国鉄さんの全面協力がない限り製作不可能だが、こちらのねらいは人命救助にポイントをおいたヒューマンな映画を作ることにあり、その辺を詳しく説明して是非とも実現させたいと思っている」 だが、協力要請は全く話にならなかったようだ。東映東京撮影所長の幸田清によると、「今年(1975年)1月、国鉄サンを刺激してはというんで、タイトルも『爆破魔を追え』にして(脚本の)第1稿をお見せして協力を要請したら、ケンもホロロ」(「週刊ポスト」75年7月11日号)だったという。 事実、国鉄公安部長は「ことし初め協力依頼があったが、好ましくないので断った。とくに、新幹線の博多開通直前に公開する計画ということで非常に迷惑な企画だった」 ( 『毎日新聞』75年4月25日・夕刊)と語っている。 確かに取り付く島もないという感じである。ただし、東映側が最初から国鉄の協力が全面的に得られるという前提に立っていたかと言えば、疑わしい。前掲の岡田の発言からして、本来ならば協力を得られない可能性が高いが、なんとか協力してもらいたいというニュアンスに思える。 撮影所内でも、こんな企画は無理だろうというムードが漂っていたという。宣伝を担った山本八州男は、「当時、事故続出で何にかと世間の悪評をかっている新幹線と、例の企業爆破のニュースで騒然としている時、そんな映画が作れる筈がないと誰もがおもった」(「大泉スタジオ通信」75年7月25日)と記している。 実を言えば、筆者は〈国鉄非協力による撮影中止の危機〉自体が、宣伝のために大仰に喧伝されたのではないかと思っている。監督の佐藤自身、「国鉄の協力も半々だろうと思って、それほどあてにしていなかったんだけど」(「東映映画情報・無頼」第2号)と1976年当時に発言しているように、それほど切羽詰まったものではなかったのではないか。 1月24日に脚本を渡された撮影の飯村雅彦によると、2月に入ってから佐藤や美術監督の中村修一郎(中村州志)と共に打ち合わせを始めた当初は、「われわれはある程度の撮影(駅関係、一部車内撮影)は国鉄の了解のもとにできるのではないかという推測の上に立ってプランを押しすすめていた」(「映画撮影」75年9月号)という。つまり、駅構内、ホーム、客車ぐらいは実物を借りて撮影を行えるだろうという希望的観測があったというのだ。佐藤も、「新幹線を借り切って、博多まで三、四回も往復すれば撮れちゃうんじゃないかって思ってた」(「映画情報」75年8月号)という。 だが、全面的に国鉄の協力を得られたとして、意図するような映像が撮れるとは限らない。撮影の飯村は、前掲の「映画撮影」で次のように記している。 「本物の新幹線が使えたところで、キャメラ・ポジションは厳しく限定されるわけで、あのスピードで横切られた場合の圧力は大変なもので、線路の横などでは耐えられないくらいすごいものであった(テストで数カット撮った感想である)。そうなると、当然、キャメラ・ポジションは不本意な位置を選択せざるを得なくなり、その結果、フラットな新幹線列車の走行の羅列にもなりかねない」 実際、前半の見せ場となる浜松駅付近で上り線を走るひかり20号と、下り線を走るひかり109号がすれ違う瞬間にポイントを切り替え、ひかり109号を分岐点で上り線へと滑り込ませようとする息詰まる場面にしても、あるいは後半の救援に向かった新幹線との並行走行なども、実物を使えたところで再現するわけにはいかないだろう。編集で誤魔化せば、途端にチャチなものになる。こうした場面では、ミニチュアを製作することが、あらかじめ決定していたと思われるが、一部のカットを特撮にするのと、全面的に特撮を用いるのでは、映画の作り方が変わってくる。 また、駅構内、運転台、客車、線路内にしても、実物を借りて撮るか、セットを組むかでは、美術費用も大きく変わることになる。製作費が膨らむことは、製作中止の大きな理由になり得るため、どこまで協力を得られるかは、映画作りの成否を左右する面がある。国鉄への協力交渉はなおも続いていた。東映東京撮影所長の幸田清は、「第2稿は鉄道Gメンの活躍を前面に押しだし『大捜査網』というタイトルでご意見をうかがったら、とんでもないでしょう」(「週刊ポスト」75年7月11日号)と、新幹線や爆破を題名から引っ込めてみたものの相手にされなかったと明かす。 この『大捜査網』の脚本は、その後もダミーとしても役立ったようだ。進行助手を務めた瀬戸恒雄によると、「鉄橋の下で撮影したい場合など、そのままのタイトルでロケ申請すると、シナリオを読んでもらう前に門前払いとなってしまう。そこで『大捜査網』という題名のシナリオを30部ほど印刷し、ロケ交渉でそのシナリオを先方に渡し、許可を取っていました」(「東映の軌跡」)という。 1975年2月半ば、国鉄からの協力は一切期待できないことが明白となり、2月末クランクイン予定が、2ヵ月にわたって順延されることになった。緊急停車するか運行を進めるか、東映は決断を迫られた。 新幹線大爆破未遂事件 東映からの協力の申し出に、国鉄は口頭で、この映画の設定は大きな社会不安をもたらすものだけに協力できないし、可能ならば製作中止にしてほしいと申し入れた。 たかが映画に神経質すぎるのではないか――と思いそうになるが、国鉄には国鉄の言い分もあった。新幹線に爆弾を仕掛ける事件が現実に存在したからだ。 1967年4月15日に起きた「ひかり21号爆破未遂事件」では、東京駅発の「ひかり21号」の7号車16D席に箱入りの「源氏物語 下巻」(河出書房新社)が置かれているのを、熱海付近を走行中に車掌が発見した。しかし、この近辺の席は売られておらず、不審に感じて箱の中を調べてみると、本の四隅がテープで固定されており、中身が見られないようになっていた。爆発物の可能性ありと判断し、新幹線総合指令所に連絡を取り、名古屋駅到着時に鉄道公安職員に引き渡し、そのまま愛知県警と中村署へと渡されたが、その後、中身を改めると、本の中は鋭利な刃物でくり抜かれており、ダイナマイト3本と発火装置が装填された時限爆弾と判明した。幸い、設置されていた時計が壊れていたことに加えて、車掌が本を箱から抜き出したときにコードの接触が悪かったこともあり、不発に終わった。もし爆発していれば、一車両が吹き飛んでいた可能性があった。 捜査は意外に手こずったが、事件から1ヵ月後の5月17日、有力な手がかりを捜査本部は入手した。事件当日、「ひかり21号」の7号車付近を撮影した8mmフィルムである。提供したのは当日、10号車に乗車した団体旅行の1人で、発車前のホームで約5分にわたって8mmフィルムを回しており、7号車の様子も写っていた。捜査本部が解析すると、10号車から7号車に向かって、キョロキョロ周囲を見回しながら歩く不審な若い男が写っており、重要参考人として行方を探すことになった。また、この時間にホームにいた人々もフィルムには写っているだけに、これらの目撃者を探し出すことで事件解決につながる可能性があった。 しかし、期待された犯人につながる情報にたどり着くことはなかった。 迷宮入りかと思われた捜査に進展があったのは、事件から10ヵ月後。福島県須賀川署に窃盗の容疑で逮捕されていた18歳の無職少年が犯人と判明した。 少年は須賀川市内で数件の窃盗を行った疑いで指名手配されており、1968年2月16日に逮捕されていた。取り調べに当たった捜査員が、前年4月の「ひかり21号爆破未遂事件」の同日同時刻に少年が修学旅行で東京駅から「こだま」に乗り込んだことを知り、警視庁に指紋を照会したところ、爆破装置となった「源氏物語 下巻」に付着していた指紋と一致したことが決め手となった。 同月18日に少年の部屋を捜索すると、導火線、木炭、カーバイドなどの黒色火薬を作る際に用いられるものが発見され、少年が火薬の作成を行っていた嫌疑が高まった。そして少年が友人に保管を依頼したとされるダイナマイト131本、雷管62個も発見された。 これらの証拠を突きつけられた少年は、「学校で習ったことを実験してみたかった」(「毎日新聞」68年2月20日)と供述。前年の1月に工事現場から工事用ダイナマイト134本を盗み、爆破装置のテストを3月頃から始めていたという。本を左右に開くと爆発する仕掛けを施し、4月15日に修学旅行で上京した際に、本に偽装した時限爆弾をボンストンバッグに詰めて持ち込み、東京駅の新幹線ホームで隙を見て新大阪行き「ひかり21号」に乗り込み、7号車16D席に時限爆弾を置いて立ち去ったという。 1969年5月、爆発物取締罰則違反、電車破壊未遂、殺人未遂に問われた少年は、東京地裁刑事二部でひらかれた論告求刑で懲役13年が求刑された。 実際に爆弾を仕掛けないまでも、脅迫電話は後を絶たなかった。1971年2月4日には、赤軍派を名乗る男から、東京駅の駅長室に「新幹線ひかり号に時限爆弾を仕掛けた」と告げる電話が、午後2時18~47分にかけて、計4回かかってきた。犯人は、それぞれ、ひかり49、309、53、55号に爆弾を仕掛けたと告げた。 すでに東京駅を発車していた「ひかり49号」は熱海駅で臨時停車させ、鉄道公安官を乗せて車内点検にあたったが、不審物は発見されなかった。後発の新幹線も東京駅や小田原駅で検査したが、異常はなかった。ところが、「ひかり49号」が米原駅の東500メートル付近を走行中、前から4両目の車両の窓に接触音と共に直径3ミリの穴があき、放射状のひびが入った。1時間後、同じ場所を通過した「ひかり55号」の前から3両目の車両の窓にも直径5ミリの穴があき、8本のひびが入った。その後の検証で「ひかり49号」は空気銃によって狙撃されたことが断定され、「ひかり55号」は空気銃か投石か判然としなかったが、いずれにしろ脅迫電話との関連があるものと見られた。 こうした事件以外にも、いたずら電話も含めた脅迫が頻発していただけに、国鉄が模倣犯を生み出しかねない映画の製作に神経質になったのは無理もないと言えるかもしれない。